ターニャの部屋がノックされた。
ターニャがここに泊っていることは、誰も知らない。
ボーイを呼んだ覚えのないターニャは、銃を手にして静かにドアの横に立った。それから、押し殺した声で「誰?」と誰何する。
「桜井だ。ターニャ、ここに泊っているのはわかってる。話がある、開けてくれ」
ターニャは銃を片手にドアの横に立ち、耳を澄まして、用心深く外の様子を窺った。それから、なるべくドアの前に立たぬようにしながら、ドアスコープを覗いた。
桜井が、両手を上げてドアの正面に立っている。どうやら、一人のようだ。
ターニャがドアを細めに開け、周りに誰もいないことを素早く確認すると、桜井を招き入れた。桜井の背中に銃口を向けながら、ターニャが後ろ手でドアを閉める。
「さすが、用心深いな」
「何しに来たの? その前に、どうしてここがわかったの?」
ターニャが、鋭い声で桜井に質問を浴びせた。
「おいおい、そう矢継ぎ早に質問しなさんな。それじゃ、杉村と同じだぜ」
笑って答えた桜井に、ターニャの目がすっと細くなる。
「どうやら、死にに来たようね」
ターニャは、侮辱されるのが大嫌いだ。
今にも、引金かけた指に力を入れそうだ。
「まあ、そう怒りなさんな。俺は、話し合いにきた。これが、一つ目の質問の答えだ」
今にも撃たれそうな状況なのに、桜井は瓢々としている。
桜井と距離を置いたターニャが、銃口を桜井に向けたまま、じっと桜井の目を窺う。ターニャの鋭い視線を、桜井は動じることなく受け止めている。
「どうやら、嘘ではなさそうね。いいわ、信じてあげる」
「そういつは、どうも」
桜井がニヤリと笑う。
「信じてくれたんなら、そいつを下ろしてくれないか。怖くて、今にもちびりそうなんだ」
自分に向けられた銃口を、顎で指す。
「レディに向かって、なんてことを言うの。第一、あなたはそんな玉じゃないでしょ」
つまらなさそうに言ってから、ターニャが銃口を下に向けた。しかし、いつでも撃てるよう、引金に掛けた指はそのままだ。
「ありがとう」
桜井が上げていた両手を静かに下ろすと、ターニャに断りもせず、勝手に椅子に腰を下ろした。
「話というのは…」
言いかけた桜井に、ターニャが冷たい声で遮った。
「まだ、もう一つの質問に答えてないわよ」
桜井と相対するように、ターニャがベッドの端に脚を組んで座った。しかし、ターニャに油断はない。右手を上にして、交差させた両手首を膝の上に乗せている。右手には銃を握ったままだ。桜井が何か仕掛けてきても、いつでも反撃できる態勢を取っている。
桜井にその気がないとわかっていても、ターニャは決して隙をみせるようなことはしない。これが、ロシア最強、そして世界の三凶と言われる所以である。
「やれやれ、用心深いことだ」
桜井が苦笑する。
「内調はいつだって、君のような大物の所在は掴んでいるのさ」
そう、とぼけてみせる。
「フン、いつから、日本の情報組織はそんなに優秀になったの」
ターニャが鼻で笑う。
「やはり、だめか」
桜井が、軽く肩をすくめてみせる。
「種をあかせば、それさ」
ターニャの履いている靴を指差した。
「昨日の銃撃戦のときに、君の靴の裏側に、発信機を付けておいたんだ」
ターニャが驚いて靴の底を見た。
地面に着かない土踏まずの部分に、ガムのようなものが付いている。その表面には、銀色をした金属が顔を覗かせていた。
「どうやら、あなたを見くびっていたようね。私としたことが、とんだ失態だわ」
悔しそうに顔をしかめるターニャを見て、桜井がにやりと笑う。
「随分、嬉しそうじゃない。わかったわよ、あなたが優秀なのは認めてあげる」
昨日の戦闘で、ターニャは桜井の腕を認めていた。
傭兵の経験があることは知っていたが、あそこまで度胸が据わっており、戦闘力も並みではないところを見せつけられて、ターニャが一目置く数少ない人間の一人に昇格していた。
「そういつはどうも。名高い君に認めてもらえるとは光栄だぜ」
「悪名高いでしょ」
自嘲するように、ターニャが返す。
「確かに、そうとも言えるな」
桜井は、ターニャの前でも臆する素振りは見せない。