「課長、ゆうべは大変でしたね」
岡本が出社するなり、部下の倉本が声をかけてきた。
木田武雄が電車に飛び込んだという警察からの電話を岡本に取り次いだのが、倉本である。その時間、会社にはまだ数人の社員が残業していた。それに、朝のニュースでも流れていたので、木田の勤めていた会社では、今朝はその話題で持ちきりだった。
「で、やはり、木田に間違いなかったんですか?」
木田と同期の田辺が聞いてくる。
「ああ、木田君だったよ」
岡本の顔は疲れきっていた。
昨夜、あれから真由美を家まで送り届けたのだが、真由美が一人でいると気が狂いそうだというので、朝方まで真由美を慰めていたのだ。そして、朝一番の電車で真由美を実家に帰したあと、一旦家に帰り、着替えだけを済まして会社に出てきたのである。
「でも、何で、木田は自殺なんかしたんでしょう? 確かに、少し変わった奴でしたが、自殺するようなことがあったとも思えませんしね。家庭で何かあったんでしょうか?」
「そんなことは、私にわかるはずもない。ただ、昨日の奥さんの取り乱しようを見ると、家庭で何かあったとも思えんね」
「そうですか。それにしても、まさか木田がなあ」
しみじみと言う田辺の後を、倉本が引き取った。
「木田さんだけじゃなくて、最近飛び込みが多いですよね。もしかしたら、これは何か、スマホを使った新手のテロじゃないですか。そうじゃなければ、電磁波にやられたとか」
倉本の言葉に、岡本の顔色が変わった。
急に、険しい顔になる。
「そんなことは、俺は知らんよ。しかし、こういっちゃ故人に悪いが、死んだのが自分だけで良かったよ。他人を巻き込まなくてな」
そう言い捨てると、岡本はもう行けという仕草をし、書類に目を通し始めた。
「えらく冷たいですね。いつもの課長らしくないな」
席へ戻るとき、倉本が小声で田辺に囁いた。
「お前は今年転職してきたばかりで知らんだろうが、課長は去年、奥さんと子供さんを亡くされているんだ。携帯を見ながら自転車に乗っていた若い奴にぶつかられてな。そのとき奥さんは、課長の子を身籠っていたんだが、お腹から倒れたショックで流産してしまったんだ。可哀相に、お腹の子と一緒に奥さんも亡くなってしまわれたんだよ。課長は殺人罪を主張したんだが、結局、過失致死ということになってしまった。それ以来、課長は歩きながらや自転車に乗って携帯やスマホをいじってる奴を見ると殺意を覚えると、酔ったときに一度漏らしたことがある」
「そんなことがあったんですか。酷いですね」
倉本がしんみりした顔をしたものの、直ぐに真顔になって、田辺に耳打ちした。
「もしかしたら、課長がウィルスソフトを作っているのかもしれませんよ。スマホを見ていると自殺したくなるような」
「馬鹿なことを言な。いいか、冗談でもそんなことを人に言うんじゃないぞ。課長はな、そんなことをする人じゃない。それに、たとえやりたくっても、携帯とスマホの違いもわからないような機械オンチの課長に、そんなことができるわけないだろ」
小声ながら、凄い剣幕で田辺にたしなめられた倉本は「すみません」と誤り、小さくなった。
田辺は振り返り、岡本を見た。岡本は何かを思いつめたような表情をして、ぼんやりと前を見ている。疲れているせいもあるだろうが、それにしても、いつもの岡本と様子が違う。表情には翳りあり、眼に異様に暗い光を湛えていた。
そんな岡本の様子が、田辺には気に掛かった。
「まさか、課長が… いや、そんなことはありえない。機械にだって疎いし」
倉本の言った言葉が脳裏をよぎったが、部下があんな死に方をして、その奥さんを朝まで慰めていたので疲れているのだろうと、直ぐに自分の思いを打ち消した。
その時の倉本は、この事件の顛末をまったく予想もしていなかった。