「健一、あなたの気持ちはわかるけどね、あんな奴に本気でぶつかったって仕方ないでしょ。時間の無駄よ。もっと、大人になりなさいよ」
席に戻ってから、涼子がきつめの口調で、健一をたしなめた。
「わかってるけど、俺は、涼子みたいに、あんな奴に平気で頭を下げるなんてできんのや」
「そんなの簡単よ。相手を普通の人間だと思うから腹が立つのよ。ただのバカだと思っていれば、なにも腹が立つことはないわ」
平然と言ってのける涼子に、健一は改めて、涼子の恐ろしさを思い知らされた。
「だけど、秋月先輩。杉林さんに、よくあんなことが言えますね」
涼子の攻撃から健一を庇うように、良恵(よしえ)が口を挟んだ。
生田良恵。
健一と涼子の、二年後輩にあたる。
眼がクリッとして可愛らしい良恵は、服装やメイクに関してはギャル系の、どちらかというと、社会人としてあまり相応しくない格好を好んでいるが、性格はいたって真面目で向上心が強い。どんな辛い仕事でも決して音を上げないで、最後までやり抜き通す根性も持っている。
本人に言わせれば、ギャル系の服装やメイクは、彼女の戦闘服なのだそうだ。
プログラム開発という地味な仕事をしている上に、服装やメイクまで大人しい格好をしていると、気が滅入って仕方がないらしい。
そんな良恵も、客先へ出向く用事がある時は、社会人として相応しい恰好をしてくる。
だから、誰も良恵の服装については文句を言わない。
それどころか、良恵の戦闘服は、職場に花を添えていて、みんな口にこそ出さないものの、歓迎していた。
「あんな奴に好き勝手言わせとったら、つけ上がるだけやろ」
「本当に、あんたって子供ね。男って、みんな馬鹿なんだから」
「ちょっと待ってください」
健一の言葉を一刀両断に切り捨てる涼子に、新八(しんぱち)が不服そうな声で言い立てた。
「男が、みんな秋月さんのようだなんて、そんなことありません。僕を、秋月さんと一緒にしないでください」
田上新八。
入社二年目の、まだ新人といってもよい若者である。
新八とは、また時代がかった名前だが、新八の父親がたいそうな新撰組のファンで、その中でも、とりわけ永倉新八を気に入っていた。
新撰組結成当初からの隊士なのに、幾多の白刃が飛び交う修羅場を潜り抜け、大正の時代まで生き抜いた。
その強さと強運にあやかって、我が子を新八と名付けた。
しかし、当の本人は背丈こそれなりにあるものの、痩せぎすで、運動はからっきしときている。
性格も、どこか頼りない。真面目だけが、取り得の男だ。
今後のことはわからないが、今のところ、お父さんの願いは叶っていない。
ある意味、新八も名前負けしていると言える一人だろう。
「おまえ、言ってくれるやないか」
健一が、新八を軽く睨んだ。
「だって、秋月さんと一緒にされるなんて心外ですもん。あ、睨みましたね。パワハラで訴えますよ」
「好きにせえや」
「やめときます。秋月さんには、堪えそうもありませんから」
「なら、最初から言うなや」
「ハイハイ、痴話喧嘩はそれくらいにして、そろそろ仕事しましょ」
幼稚園児をあやすが如くに、涼子が割って入った。
良恵は、くすくすと笑っている。
健一と涼子、それに良恵と新八。この四人が、同じチームの仲間である。
年齢や経験年数の違いはあるが、四人はとても仲がよい。
それというもの、健一と涼子が、二人をうまく引っ張っているからだ。
仕事を始めて十分も経たないうちに、健一が田中課長に呼ばれた。
田中太郎。
名前も平凡だが、性格も能力も、きわめて平凡な人物である。
しかし、自己保身の術には、非凡なものを持っている。
部下の手柄は自分の手柄、部下の失敗は部下の責任という、無能で無責任な上司の王道を貫いている。
ただし、自分の失敗を部下に押し付けることはしない。
失敗を恐れるあまりに自分では仕事をしないから、失敗のしようがないのだ。
そんな彼が課長になれたのは、ひとえにこの自己保身と、上へのゴマすりのお蔭だった。
「なんですか?」
「ここではなんやから、ちょっと場所を変えよう」
そう言って田中は、健一を会議室へと連れていった。