杉林は、誰が見てもわかるくらい涼子に熱を上げている。
一度、権力を嵩にきてものにしようとしたことがあったが、涼子の、セクハラとパワハラで訴えますよという、笑いながらのやんわりとした拒絶に遭い、断念した。
まさか、本気で訴える気はないだろうと高を括ってみたものの、気の小さな杉林は、それ以来方針を変え、涼子だけには下手に出ている。
涼子のことを知り尽くしている健一は、涼子が冗談で言ったのではなく、杉林がしつこく権力を嵩にきた場合、本気で訴えるだろうと確信していた。
「香山君は、ええのや」
咳払いをしながら杉林が答えたとき、
「なんで、私はいいのですか」
絶妙のタイミングで涼子が入ってきた。
「秋月君の言う通りです。彼らを叱るのなら、私も叱ってください」
真っ直ぐに杉林の目を見て、毅然とした態度で言う。
「い、いや、涼子君。君を叱るやなんて、何を言ってるんや。君は、いつも一生懸命仕事をしてくれてるやないか。そんな君を叱るなんて、そんなこと、出来るわけないやろ」
さきほどの威勢はどこへやら、杉林は涼子の視線をまともに受け止めることができず、涼子から目を逸らして、しどろもどろに言ったあと、恨みのこもった目で健一を睨みつけた。
健一は、素知らぬ顔で杉林の視線を受け流した。
「それは、彼らも一緒です。生田さんや田上君がよくやってくれているから、私も自分の仕事がきちんと出来ているんです。私だけが叱られないとなれば、みんなに申し訳なくて、私はこの会社にはおれません」
涼子は毅然とした態度を崩さず、凛とした声で告げた。
「それから、これからは名前ではなく、香山と呼んでください。上司のあなたが部下を名前で呼んでいては、上司としての示しがつかなくなります」
あんたに、涼子と呼ばれるなんて、虫唾が走るのよ。
涼子の本音だ。
杉林が、困った顔をして俯いた。
追い詰められて、どうしてよいかわからずに下を向いている杉林。
両手を前に組み、背筋を伸ばして立っている涼子。
自分に対する杉林の気持ちをわかり過ぎるほどわかっていながら、それを平然と逆手に取る涼子を、健一は頼もしく思うと同時に、空恐ろしくも思った。
「まあまあ、涼子君、おっと、香山君。君にそこまで言われたら、俺は折れるしかないやんか。ま、今回は香山君に免じて、特別に許したるわ」
杉林が、媚びるような笑みを浮かべて涼子に言ったあと、さきほどまで怒っていた二人に傲岸な顔を向けた。
「よっかたの、おまえら。出来た先輩がおって。涼子、おっと、香山君に、よく礼を言うんやぞ」
次に、憎しみのこもった皮肉な笑みを浮べて健一を見た。
「秋月よ。おまえも、ええ同僚がおって幸せやの。涼子、おっと、香山君がおらへんかったら、おまえなんか、とっくにこれやで」
杉林が、首を切る真似をしてみせる。
健一が一歩前へ出ようとした時、気配を察知した涼子が、さりげなく健一の腕を掴んで止めた。
「ありがとうございます。やっぱり、杉林さんは立派な上司です。では、私達はこれで」
涼子が涼やかな声で言って、杉林に頭を下げた。
「あ、ああ、涼子、いや、香山君は素晴らしい女性やな。君のような女性を部下に持ったことを、俺は誇りに思うで」
涼子に目一杯おだてられた杉林は、今にも涎を垂らさんばかりにしている。
そんな杉林に呆れるよりも、心にもないことを平気で言える涼子に呆れて、健一はじっと涼子の顔を見つめていた。
「秋月。おまえも、少しは香山君を見習ったらどうや。上司に楯突いてばかりおったら、ホンマにクビになるで」
健一が涼子に惚れているとでも勘違いしたのか、はたまた、涼子に言いくるめられた鬱憤を晴らしたかっただけなのか、杉林が憎々しい口調で捨て台詞を吐いた。
「結構です。俺は、無理な命令には従っても、理不尽な命令に従うつもりはありませんから。それが気に喰わんのやったら、いつでもクビにしてください」
健一は、無理と理不尽は似て否なるものだと思っている。
仕事をしていく上で、無理は避けては通れない。
どだい仕事というものは、無理の積み重ねなのだ。
仕事上で必要なことは、どんなに無茶と思えることでも、理不尽ではなく無理という。
理不尽というのは、道理の通らないことだ。
今の杉林のように。
「なんやて、おまえ、まだ、この俺にそんな口を叩くんか」
杉林が真っ赤な顔をして、健一を怒鳴りつけた。
「すみません。秋月君には、私からよく注意しておきますので、そんなに怒らないでください。確かに、秋月君は生意気でしょうが、そんなことに一々本気で怒っていたら、杉林さんも秋月君と同じレベルになってしまいます。私は、杉林さんにはどっしりと構えてもらって、上司としての威厳を保っていてほしんです」
涼子の言葉に、杉林が一瞬で相好を崩した。
「そうやな、うん、香山君の言う通りや。俺が秋月と同じレベルやなんて、上司としての威厳が保てんわな。わかった。ここは香山君に任すから、秋月をよう教育したってや」
先ほどまでの怒りはどこへやら、にこにことして椅子に座る。
恐るべし涼子。
健一の身の毛がよだった。