「そうか、ならいい」
安藤さんが踵を返す。
「あら、今日は飲んでいらっしゃらないの」
「勤務中だからな」
そのまま片手を上げて、店から出ていった。
ありがとう、安藤さん。名演技だったよ。
「鬼の安藤か」
古川さんが、誰に言うともなく呟く。
「マル暴の中でも、最も敵に回したくない男ですわ」
言いながら、木島さんが古川さんに酌をする。
古川さんは、鷹揚にグラスを差し出し、注がれた酒を呷った。
実に、堂にいっている。
やっぱりこの人は、元ヤクザの親分だったのではないか。
「さて、あんまり邪魔してもいけねえや。帰るか」
グラスを空けた古川さんが立ち上がった。
「そうですな。この人たちも居心地が悪そうですし、帰りますか」
木島さんが、多田野さんと今池さんの顔を見る。
二人は、俯いて小さくなっている。
「洋ちゃん。今度、ゆっくり飲もうや」
木島さんが、俺の肩を叩く。
「そうそう」
背を向けかけた木島さんが、振り向く。
「洋ちゃん、あんた、親父の会社に戻ったんだって。困ったことがあれば、いつでも言ってきな。力になるからよ」
そう言い残して、組長と若頭は出ていった。
「ヤクザに借りを作っちゃ、後が怖いよ」
文江さんが脅すように言う。
「でも、あの人って、ヤクザにしては義理堅いって評判ですよ」
木島さんたちが来てから、ひとみさんが初めて口を開いた。
「そうだね」
文江さんがうなづく。
「洋ちゃん、あんたも、大変な男に見込まれたもんだね」
俺はなにも答えず、ただ苦笑で返した。
そんな俺を、多田野さんと今池さんは、畏敬と尊敬の入り混じった目で見ている。
ごめんな、多田野さん、今池さん。
少し後ろめたくはあるが、今日の芝居は完全に成功した。
「お父さんの会社って、なにをやってるんだい」
「婦人服の卸です」
「そうなんだ。どんな服を扱ってるのかしら」
俺は、ひとみさんにカタログを見せた。
文江さんも覗き込む。
カタログをめくる、二人の表情は硬い。
多田野さんと今池さんも、固唾を飲んで二人の顔を見ている。
「売れてるの?」
カタログを閉じたひとみさんの顔は、やや曇っている。
「昔はそれなりに売れてたみたいだけど、今は落ち込んでいってる」
「そうだろうね」
文江さんが納得したようにうなづいた。
「ありきたりのデザインだし、どの年齢層をターゲットにしているのかわからないもの。一昔前ならこれでもよかったんだろうけど、今の時代じゃね」
文江さんの言う通りだ。今は、安ければよいという時代ではない。安さに加えて、個性が必要なのだ。
「ユニ○ロやG△だって、季節や流行に合わせて次々に新商品を打ち出しているでしょ。それに、百円ショップで三百円とかで下着を売っているけど、ダサい下着は売れないらしいわよ」
文江さんの言うことは、そのまま俺も感じていたことだ。
それでも、昭和の生き残りのような人たちが無難で安い服を選ぶので、まだ需要はあるものの、主に売られているのは、東京なら巣鴨、大阪なら天六商店街に代表されるような、年配者が集う、驚くほど安い商店街の店が多い。
これでは、一着売っても、ほとんど利益は出ない。同じ商品を大量に売らなければ、商売にならないのだ。今のように、多品種少ロットでは、手間賃ばかりがかかってしまう。
多田野さんと今池さんが、なにか言いたげに文江さんの顔を見た。が、なにも言わなかった。二人にも、今のままでは駄目だということはわかっているのかもしれない。
二人の顔を見て、そう感じた。
だが、どう打開してよいのかわからないのだろう。いや、それ以前に、自分たちのやり方を変えるのが怖くて、先細りなのがわかっていても、しがみついているだけかもしれない。
サラリーマンとは、みんなこういうものか?
それとも、うちの会社が甘いだけなのか?
俺は若造だが、先が見えているのに、見えない振りをするなんて、とても出来ない。たとえ間違っていたとしても、なんとかせねばと思う。
だから、親父と衝突したのだ。
親父も、そこはわかっている。
親父と俺との決定的な違いは、親父は今の社員に思い入れがある。どれだけ厳しいことを言っても、やはり可愛いのだ。だから非常になりきれない。
俺は、親父と違って思い入れがない。だから、改革についてこれなければ、辞めればいいと思っていた。
親父がことごとく俺の意見に文句をつけたのは、それがわかっていたからだろう。
だが、今の俺は違う。たんぽぽ荘の人達と触れ合った俺は、人との関わりがどんなに大切か、身に沁みて知っている。だから、こんな芝居を打ってでも、俺に協力させ、社員が一丸となれるようにしようとしている。
人間、一人の力なんて、たかがしれている。だからといって、数が集まればいいというわけでもない。要は、信頼関係なのだ。強固な絆で結ばれた関係。そういった人たちが力を合わせれば、出来ないことはないのではないかと、俺は思っている。
そう思うようになったのも、にゃん吉を拾ったお蔭だ。にゃん吉よ、ありがとう。
親父も、最初はおふくろに言いくるめられて俺のところにやってきたのかもしれないが、たんぽぽ荘の人達と交わり、その人達と俺との信頼関係を見て、会社を任せる気になったのかもしれない。