一緒に暮らし始めて半年以上も経つというのに、善次郎は活の性格がいまだに把握しきれていない。
自分から撫でろと身体を摺り寄せてくるくせに、頭や背中を撫でていると、いきなり本気で噛んでくることがある。
今も、善次郎は手首を噛まれた。これで何度目だろうか。
手首の裏からは、血が滲み出ている。
痛くはあるものの、大した傷ではない。
噛まれ慣れている善次郎は、そのまま放っておいた。
だが、時間が経つにつれ、噛まれた部分の周りが赤く腫れてきた。
これまでにない現象だ。
善次郎は少し心配になったものの、それでも、一晩寝れば治っているだろうと高を括っていた。
念のため消毒液を降りかけて、そのまま眠りに就いた。
次の朝目覚めると、善次郎はびっくりした。
腫れは引くどころか、ますます酷くなっているではないか。
晴れた部分が赤みを増し、さらに広がっている。触ると痛い。
これはやばい。
そう思った善次郎は、ネットで調べてみた。
そこで善次郎は、驚愕の事実を知ることになる。
毎年数人ではあるが、飼い猫に噛まれて死亡しているのだ。
症状からすると、パスツレラ菌が入ったものと思われる。
どうやら猫は、口の中に多くの雑菌を持っているようだ。犬よりも多いらしい。
それに、口だけではなく、爪に菌を持っている確率も多いと書いてあった。
これまで、あれだけ引っ掻かれていたのに、よく無事でいられたもんだ。
善次郎は、薄れかけている数々の傷跡を見て、自分の幸運に感謝した。
しかし、今回はたまたま運悪く、傷口から雑菌が入ったみたいだ。
それで、こんなに腫れあがっているということがわかった。
これで死ぬ人の多くは、免疫力が低下していたり、糖尿や癌であったりといった病気にかかっている人みたいだが、だからといって、安心してはいられない。
このまま放っておけば、健康な善次郎だってどうなるか知れたことではない。
たとえ死ななくても、へたをすると腕全体がパンパンに腫れて、、腕を切り落とすことになるかもしれないのだ。
噛まれたのは、利き腕の右腕だ。
右腕がなくなれば、凄く不便だ。
生来楽天的なところのある善次郎は、そんな暢気なことを考えた。
だが、いくら楽天家といっても、死ぬのはむろんのこと、腕を切り落とす気もない。
早急に医者へ行くことにした。
幸いにも、今日の仕事は午後からなので、朝から病院に行く時間はあった。
外科か内科か、どちらへ行けばよいかわからなかったが、外科は電車に乗らねば行けなかったため、とりあえず近所の内科へ行ってみた。
腫れあがった手首を見せて、事情を話す。
善次郎のような患者は初めてではなかったのか、医者は心得顔で頷いて、抗生物質を出すから、それを飲めと言った。
医者の処方はそれだけだ。注射も打たない。
確かに、ネットにもそんなことが書いてあったが、こんなに腫れていて、抗生物質を飲んだだけで治まるものなのか?
やっぱり、外科に行ってみようかな。
そう思ったが、とりあえず様子を見てみようと思い直し、抗生物質を受け取って職場へと向かった。
善次郎の心配は杞憂に終わった。
抗生物質を飲んで一日も経つと、腫れがましになった。
よかった。
いかな楽天家であっても、胸中に不安はあったのだろう。善次郎は安堵した。
二日目には、ほとんど腫れは引いていた。
現代医学は大したもんだ。心からそう思った。
またひとつ、善次郎は学んだ。
猫に限らず、動物を飼うということがいかに大変なことか。
動物の命だけではない。へたをすれば、自分の命にも関わってくる。
餌や体調管理、そして病気以外にも、気を付けなければいけないことはまだまだ沢山ある。
今回も、善次郎にとって良い教訓になった。
「おまえのお蔭で、えらい目に合ったぞ。俺が死んだら、誰がおまえの面倒を見るんだ」
活に話かける。
「まあ、おまえに噛まれて死ぬんだったら仕方ないけどな。そうなっても、俺は恨みはしないよ」
そう言いながら、懲りもせずに活の頭を撫でている。
教訓がまったく生かされていないかといえば、そうでもない。
無防備に撫でることはしなくなった。
活を撫でる時の善次郎の眼は、油断なく活に注がれている。
咄嗟の攻撃に、いつでも対処できるようにだ。
次の話:贅沢
前の話:変化
第1話:風