善次郎は、明け方に帰ってきた。

 

ドアを開けるなり、猫の名前を呼んだ。

 

今、善次郎は警備員の仕事をしている。

 

主に、夜の警備に就いていた。その方が、よりお金になるからだ。

 

なにせ自分だけでなく、猫も食わせなければいけない。

 

この不況の折、元社長なんて肩書きは通用しない。

 

それどころか、普通のサラリーマンより、転職は不利だろう。

 

一生懸命仕事を探したが、案の定、どこも雇ってくれるところはなかった。

 

会社を畳むおり、一切合財を持っていかれた善次郎は、仕事を選んではおれなかった。

 

どこだろうが、自分を雇ってくれる会社に即座に入った。

 

それが、警備会社だったのである。

 

といっても、正社員ではない。

 

病気でもすれば、直ぐに職を失うことになる。

 

それだけ厳しい環境でありながら、善次郎は生き生きとしていた。

 

仮にも、会社を経営していた者が警備員になるなんて、以前の彼だったら、情けなくて涙が出たことだろう。

 

それ以前に、そんな選択をしなかったに違いない。

 

自棄になり、今頃はこの世にいないか、高い塀の中で過ごしている可能性が高い。

 

だが、今は違う。

 

あの日、子猫と出会ってから、善次郎は変わった。

 

夜勤明けだというのに、善次郎の顔に疲れは見えない。

 

善次郎も、もう中年の域に差し掛かっている。夜勤をして疲れないはずはない。

 

疲れてはいるのだが、子猫の顔を見ると、不思議なことに疲れなど吹き飛んでしまうのだ。

 

四畳一間の文化住宅である。そこで、善次郎と子猫の共同生活が始まっていた。

 

活(かつ)。

 

子猫は、そう名付けられた。

 

子猫は、痩せ衰えた小さな体で、強風にも負けず、生きようと必死に四肢を踏ん張っていた。

 

その姿に、絶望の淵にいた善次郎は、生きる勇気を貰った。

 

だから、活と名付けた。

 

雄だったのもある。

 

活は、黒猫だ。

 

だが善次郎は、そんなことは気にもしていない。

 

活と出会うまでは、黒猫を見ると縁起が悪いと思っていた。

 

今にして思えば、愚かなことだ。

 

黒猫が縁起悪いなんて、ただの迷信に過ぎない。

 

現に、自分は黒猫に、活に救われた。

 

黒猫だって、立派に生きている。

 

それを縁起が悪いと忌み嫌うのは、人間のエゴ以外のなにものでもない。

 

一番縁起の悪い生き物は、人間ではないか。

 

善次郎は、今ではそう思っている

 

いや、縁起の悪いどころではない。

 

自分たちの欲望のためなら、どんなことでも平気でやってのける。

 

罪もない動物たちを絶滅させ、限りある資源を、将来のことなど少しも考えずに、浪費しまくっている。

 

そのくせ、綺麗事ばかり並び立てている。

 

動物や植物にとって、これほどタチの悪い生き物はいない。

 

自然界、いや、地球にとって、人間が一番ろくでもない生き物なのだ。

 

そんな人間が、黒猫を縁起が悪いとは、よく言ったものだ。

 

活を見ていると、善次郎は、これまでの自分の傲慢さを思い知らされる。

 

欲を捨てる。

 

活から、それを学んだ。

 

欲といっても、生きるために必要な欲は捨てない。

 

逆に、生きるためには貪欲になったような気がする。

 

金銭欲、物欲、権力欲、そういった類の、生きていくためには必要のない欲である。

 

必要でないばかりか、却って邪魔になる。

 

人間社会では、そういったものがなければしんどいだろう。

 

くらだない欲を持ったものがいい目をし、欲のない者が損をする。

 

それが、人間社会というものだ。

 

六畳一間の部屋、きつい仕事、安い賃金。

 

それでも、善次郎は幸せだ。

 

寝るところがあって、毎日ご飯が食べれる。

 

これ以上、何を望むというのか。

 

それを、活が教えてくれた。

 

受験戦争や出世競争。それらは、決して生きていくために必要なのではなく、より良い生活をするために必要なのだ。

 

そのために、鬱になったり過労死したりすることもある。

 

なんと、本末転倒なことか。

 

それだけでも大変なのに、さらに、見栄というやっかいなものが存在する。

 

これも、一種の欲であろう。

 

自慢したい、恰好をつけたい、人と差をつけたい。

 

自分もそうだった。

 

そういった欲が人一倍強かったから、会社を興して社長になったのだ。

 

なんと、くらだないことだ。

 

今ではそう思っているし、大切な時間を棒に振った気にさえなっている。

 

限られた人生なのに、もったいないことをしたものだ。

 

どんなに長生きしても、楽しまなければ価値がない。

 

将来を考えて苦しい思いをしても、明日死ぬかもしれないのだ。

 

だったら、今を楽しまないでどうする。

 

不思議だが、活を見ているとそんな気になる。

 

そんな善次郎の気持ちを知ってか知らずか、活がニャアと鳴いた。

 

餌をくれと催促しているのだ。

 

善次郎は苦笑した。

 

生きる欲。

 

これだけはしっかり持っておこう。

 

活に餌をやりながら、善次郎は、いつもそう思う。

 

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