宇宙の叡智ソロモンからのメッセージ PART2
ファースト・ステージ パーソナル(個的)な魂 「意識の進化と人間の生長」1




このメッセージは、人の意識(魂)を、物や感情に束縛された状態から開放し、永遠なる魂へと導き、さらには光の世界を作り上げるために、行うべき事について書かれています。
まさに私達の意識の浄化がテーマです。
そして意識と魂が浄化のプロセスを無理なく理解できるように、永遠なる愛のあり方や、イエス・キリストが十字架にかけられた秘儀的な意味について、又地上の霊的楽園であるシャンバラについても言及しています。

これは1994年2月にTAKESHIへのチャネリングを通して語られた言葉ですが、まさに今の時代のために書かれたものである事がわかります。


ファースト・ステージ パーソナル(個的)な魂

私(宇宙の叡智ソロモン)はあなたの魂だけでなく、さまざまな魂を守護する存在です。
私は、キリスト教やイスラム教、神道といった諸宗教・諸会派を超えて、この地球の、この宇宙の変化のために役立つような存在を育てる事が目的なのです。
そのために今は、この地球上において皆さんの意識の進化と成長にサポートを与えています。

しかし私がサポートできる進化の度合いというのは、人々が個(パーソナル)の次元から、それを超えていこうとする次元にあること、つまりあなたが、自分の自我というものに目覚め、なおかつそれを乗り越えるための努力をしているということが、わたしがサポートするための条件です。

パーソナルに捕らわれている魂というのは、決して成長というものを望みません。
自分の殻に閉じこもり、自分のパーソナルという物が、唯一すべてであり、又最高であると信じている人たちにとっては、成長は望み得ないのです。

またそのような人たちで構成されている集団というのは、自分の利益を中心として考えますから、お互いがお互いを搾取しあったり、お互いから奪い合ったりするような社会なのです。

私達は個々のパーソナルを乗り越えて、お互いを認め、内なる部分で繋がっていかなければ、心の深いところから、人を愛する事も、他人の為に奉仕する事も、もはやできない次元に来ているのです。
このパーソナルが育つ以前というのは、純粋な子供たちのように、あるいは自然の中に生きる無垢な生命体のように、お互いが意識の深いところで繋がりあい、共存していた世界でした。

また一時代前の世界は、自分が他人を助けなければ、他人は自分を助けてくれない。
自分が社会のために何か役割を果たしていなければ、その社会の中で生きてはいけない、というような社会に対する帰属意識が強い世界でした。
そのために、人の意識は自由さを失い、みんなと同じように行動し、社会のしきたりに従わなければいけないと言う強迫観念によって縛られてしまったのです。

そのような、心の奥に強迫観念が根付いている意識においては、この社会の中で自分の生活基盤を作り、他人と共に生きるという事と自分の魂を成長させるという事はひとつになりえません。
日本が経済成長を成し遂げてきた時代、日本人が働き蜂といわれてきた時代を作った背景には、このような意識があったように思われます。

しかし、現在は違います。この高度に発達した社会の中においては、一人一人が自分の自由意志というものによって生きることができます。
この社会は、お互いとお互いの自由意志によって成立している社会です。

ですから経済的な基盤があれば、その人がこの社会のために自分の身を犠牲にしたり、あるいは他人の為に奉仕したりというような事が、要求されなくて済むという世界、自分のスタイルで生きていく事ができる世界なのです。

もちろん、自由意志の世界ですから、本人の意思・想念しだいでは、経済的な格差や自分を取り巻く社会環境に大きな差が生まれてきます。
幸福に見える人も、そうでない人も当然出てきます。
そして人は、人を愛する方法も自分の自由意志で選べます。
自分のやり方で、自分や自分の家族を愛し守る事もできます。
しかしながら、自由意志というものは、あくまでもその個人の選択であり、人間としての意識の範囲の中で行われる行為ですので、限界もあります。

自分の事に関しては100%自信と責任を持てても、他人との心の奥からの深いつながりは保障されません。
自分という存在を生み育ててくれた宇宙の叡智そのものとの結びつきが、いまだ意識されていませんので、人は心の奥底に常に不安を持ち続けなければならないのです。

ですからこのような社会では、お互いがすべてを許し捧げあう「無償の愛」というものが成立する事は、なかなか難しいようです。
無償の愛という物をお互いがお互いに求め合う時、それはもう無償の愛ではなくなっています。
私があなたを愛してあげるから、私のことを愛してください。
といった時、そこに愛の本質がなくなります。
たとえ愛の形があったとしても、愛の香りがあったとしても、愛する心はすでに無くなっているのです。