自分らしさを大切に -16ページ目

ボストンバッグよ永遠なれ

 

 

名古屋の地下街にあるショーウインドーで見つけたボストンバッグ。

 

無動作に吊るされて、店主の売ろうというおもいが微塵も感じられない。

 

その孤独な佇まいが物悲しく、そこから出してやりたい衝動に駆られる。

 

昨今、旅行鞄といえば、スーツケースやキャリーケースが主流で、

ボストンバッグを持った旅行者は極めて少数派だ。

 

その一派に私は属し、長い間、バストンバッグを愛用してきた。

 

残念ながら綻びが目立ちはじめたのと、時代の趨勢には抗えず、

私も一泊程度の国内旅行にさえスーツケースを使うようになった。

 

それでも、いまだにボストンバッグへの愛着は強い。

 

ボストンバッグには、人生の重みを感じさせる物語が詰まっている。

 

映画「幸せの黄色いハンカチ」でもボストンバッグは存在感を放っていた。

 

たとえば、網走刑務所から出所してきた高倉健が、妻役の倍賞千恵子と再会を果たすシーン。

 

手には、ボストンバッグひとつ。

 

これだけで、この男の人生が語れる。

 

高倉健が、安っぽいキャリーケースをガラガラと音を立てて帰ってきたら、

いくら渋い演技をしても興醒めだし、まったく絵にならないでしょ。

 

ボストンバッグよ永遠なれ。

 

京都と名古屋のガレット

 

 

年に一度か二度ほどの頻度であるが、

「ガレット」なるフランスの郷土料理が食べたくなる。

 

写真は、上段が京都で食べたガレット。

 

下段が、名古屋で食べたガレットである。

 

京都の方が、本場のテイストに近いと思う。

 

名古屋のこのガレットは、アレンジの度合いが強い。

 

派手で豪華なことが好きな名古屋人の嗜好を慮ったのだろうか。

 

私の舌には、奇を衒わない普通のガレットの方が合うようだ。

飯台にかばんを置く行為

 

 

私は、食事をするテーブル(飯台)にかばんを置く行為を忌み嫌う。

 

大衆酒場のテーブルも例外ではない。

 

この夜、隣に座った同年代の男性が、何の迷いもなく、

使い込んだ皮のトートバッグをカウンターのテーブルに置いた。

 

かなり大きなバッグだから、あきらかに私の領域を侵犯している。

 

侵犯自体は気にならない。

 

狭い店だ、窮屈がイヤなら来るべきではない。

 

だが、テーブルにカバンが置かれたことが不愉快で

「申し訳ないですけど、カバンは下に置いてください」とお願いしてしまった。

 

男性は、穏やかな声で「失礼しました」と言って、すぐにそうしてくれた。

 

そのやり取りを目にした店員が、すぐにカゴを持ってきた。

(最初から差し出せば、男性がテーブルにカバンを置くことはなかったのかもしれない)

 

そのあと私は、自分は心が狭いのかなあと自問自答しつつ酒を飲んだ。

 

スマホのテレビCMで、父親に設定された白犬が、食べ物屋のカウンターに手を置く場面があるが、

私は何度目にしても不快感がつきまとう。

 

板前さんにとってカウンターの白木は神聖な場所だと思うから腹立たしささえ感じる。

 

冒頭にもどるが、男性とはほぼ同年齢で属性にも近いものを感じた。

 

しかし、テーブルにカバンを置くことの是非においては、真逆の価値観を持つ。

 

その違いは、性格なのか、人間の器量の問題なのか、それとも育ってきた環境なのか。

 

単なる衛生観念の違いではないはずだ。

 

ただ一つ、これだけはわかる。

 

その男性とは、親しい友人にはなれないだろう。

 

いちいち気になる自分の方が、その男性より損をしているような気持ちになった。