猫の後ろ姿 2277 学芸への思い | 「猫の後ろ姿」

猫の後ろ姿 2277 学芸への思い

ウイリアム・モリス 柳の枝 1887

 

 菅季治と鹿野武一、この二人のシベリヤ抑留者のカラガンダ第十一分所における稀有な出会いを記した菅の文章を再読し、今年一年の学芸への思いを新たにしたいと思う。

 菅季治は、東京文理科大学哲学科で田中美知太郎や務台理作にギリシャ哲学、 ヘーゲル哲学を学び、京都大学大学院にも籍を置いていた。シベリヤに抑留され、帰国後いわゆる「徳田球一要請」問題で鉄道自殺に追いやられることになる。

 菅はシベリヤのカラガンダ第11分所で「学芸同好会」を主宰していて、 一週間に一回、夕食後、食堂で学問と芸術に関する座談をする時間をもっていた。そこで菅はかねてからの知り合いだった鹿野武一に、「エスペラント語入門」という話をしてくれるように依頼した。

 この時のことを菅季治が記した文章は、細見和之の言葉を借りるならば、収容所に於ける鹿野の姿と菅の姿を、「ほとんど奇跡のような美しさで伝えてくれるものだ」。

 以下で、「わたし」は菅季治、「K」が鹿野武一である。

 <そのころ、わたしたちの収容所にKがいた。Kは京都薬専を出たおとなしい人だった。ドイツ語、ロシア語、 エスペラント語にすぐれていた。Kとわたしは、よくロシア語文法やロシア文学について語り合った。彼はツルゲーネフを愛し、常にオストロフスキイの喜劇をふところにもっていた。作業場では、ちょっとの暇にも、ソヴェート新聞の切り抜きを読んでいた。或る時、わたしにこんなことを言った。「ぼくには、どうもニーチェやキェルケゴールが一番深い影響を与えたようなんです。それで、これからコムニストになるにしても、そうした過去の思想的経歴をかんたんに捨て切れないでしょう。」
  Kにわたしは、「学芸同好会」のためにエスペラント語について話してもらいたいと頼んだ。Kは、はにかみながらも引き受けてくれた。わたしは「エスペラント語入門」というテーマで広告を出した、――と言っても、小さな板きれを食堂にぶら下げたきりだけれども。
 その夜はひどい吹雪だった。夕食の終わった人気のない寒い食堂で、Kとわたしは、聞き手が集まるのを待っていた。ところが、話を始める予定の時間になっても、さらにそれから三〇分も待っても、聞き手は一人も来なかった。わたしはKに気の毒で恐れ入った。しかしKはおだやかで静かだった。Kはたゞ一人の聞き手であるわたしのために、くず紙をとじた手帳を開いて「エスペラント語入門」の話をはじめた。 一先ず「わたしの愛するエスペラント語について話す機会を与えてくれたカンさんに感謝します」と前置きして。
  Kの話は、きわめて系統的で内容豊かであった。
    一、 エスペラント語の発生
    二、文法の基本
    三、 エスペラント語の国際的意義
    四、日本におけるエスペラント語研究の歴史
    五、 エスペラント語の研究文献
に就いて、二時間位Kは語った。最後に、ゲーテの「野バラ」のエスペラント語訳を説明し、「エスペラント歌」を二回唱ってくれた。冷えきった食堂にひろがる澄んだKの声を、わたしは、「学芸の愛」そのものとして感じたのであった。
  それからしばらくしてKは他の収容所に移された。別れる時、わたしに「野バラ」と「エスペラントの歌」を書いてくれた。
  こういう美しい魂と一緒になっても、すぐ引き離されてしまうウオエンノプレンニク〔捕虜〕の身の上のはかなさを、その時ほどひどく感じたことはなかった。>


 「ほとんど奇跡のような美しさ」。
 学問と芸術へのひたすらな思慕をここに感じる。精進の一年としたい。