猫の後ろ姿 2241 どっこい生きている 『あいだ』262号 発行 | 「猫の後ろ姿」

猫の後ろ姿 2241 どっこい生きている 『あいだ』262号 発行

 『あいだ』第262号(2023年3月20日)が今日届いた。この発行を喜びたい。ぼくはこれに、「戦時下日本の美術は、<空白>だったか」という一文を載せて頂いた。

 

小絲源太郎 鏡 個展 『新美術』1942年7月号
 
 

 宮川寅雄の『歳月の碑』。24年前、名古屋の大須を歩いているときにたまたま古本屋でこれを見つけた。

 <戦時下の美術の状況というものを、もっと根源的に考える必要がある(中略)戦後の状況を、或いは現時点における美術界の状況ということを考えて、我々は戦争中に戦争を強要し、戦争を促進し、戦争を拡大していったあらゆる要素、政治的要素を含めて美術的要素、芸術的要素が今日強く残存し、あるいは新生しているからに他ならないからです。>

(217頁)。
 
 <そして私が目的とするのは単に形式的な戦争画と、戦争画を描いた人達を非難する事ではなくて、我々の内部の「戦争」があり、戦争賛美の美学、或いは戦争の美学とこれからもずっと長く戦いを統ける事だと思います。その為にあの空白の戦争下の美術の状況を充分に知り尽したい、その為の作業をしたい。>(231頁)。
 
 この二つの文章に強く触発され、ぼくは戦時下の美術の状況を探る作業を開始した。当時の美術史料を探るうちに、戦時下にふさわしく「戦争画」を描いた画家もいた、戦時下にもかかわらず相変わらず「花」と「女」を描き続けた画家もいた。絵筆を断った者もいた。戦野に命を奪われた者もいた。展覧会は何百と開かれていた。戦時下の日本の美術の実態は思いがけないほど多様で、「華やか」でさえあった。そこには、宮川の言う「空白の戦争下の美術」とは異なる様相があった。
 戦時下に日本の美術は「空白」であったのではない。戦時下に特有の美術が確かにそこにあった。にもかかわらず、戦後、少数の例外を除いて、美術関係者は戦時下の自らの言動について一切語らず、意図的にこれを隠蔽した。そして、この隠蔽工作が功を奏し、戦時下日本の美術の<空白>がつくりだされた。
 
 年表づくりの過程で知り得たことをもとに、『あいだ』誌に「戦時下日本の美術家たち」の連載を開始したのは2006年2月、2014年1月第61回をもって終了した。  (2010年11月、この連載の23回分を収録して、『戦時下日本の美術家たち 第1輯』を甲府・猫町文庫より刊行した。)
 この連載では、当時描かれた美術作品への言及はもちろんだが、むしろ時代のなかで人としての美術家がなにをどのように選択し、行動したのかに論述の重点を置いた。「戦時下日本の美術家たち」という総タイトルにぼくはこの姿勢を込めた。
 
 またこの連載中の2013年9月、藝華書院から『戦時下日本美術年表』を刊行した。 1930年から1945年の日本の敗戦まで、15年を越える戦時下にあって日本の美術はどのようなものであったか。年月日を追って、どこでだれがどんな美術作品を作り出していたのか、美術家はどのように生きたのか、史料をもとに、戦時下における日本の美術のありようの輪郭を提出することを目標とした。
 A4版、1300頁、作家約1200名、展覧会数約700件、小さいものながら3500点をこえる作品図版を当時の史料から複写して掲載した。研究を志す方がこれを手掛かりに、より深く、より精細に、歴史の真相・深層にせまっていって戴きたいと心から願います。
  
 『戦時下日本美術年表』刊行後も、史料探索は当然継続している。
 多くの関連文献のなかでとりわけ大切な一書は、青木茂先生の『書痴、戦時下の美術書を読む』。僕はこれを一頁、一頁、眼を凝らして読んだ。たくさん学び、考えた。
 1945年6月、小絲源太郎が自宅で個展を開催、<空襲下の時にもかかわらずゲートル、鉄かぶとの人多く見える>と「年譜」に記されている。同年8月には、渋沢秀雄邸で小絲の個展が開かれたということを写真家の秋山庄太郎が新聞に書いている。
 この8月の小絲源太郎の個展に関して、<誰か、小絲源太郎の「芸術家魂には敬服し、感動し」ながら日附や場所を教えてほしい(敬服し、感動しない人には、たとい正確であっても教えられたくない)。>(113頁)と書いておられる。

 8月の個展の方の情報は僕は持っていないので、6月の個展の方の情報を、拙編『戦時下日本美術年表』よりここに写しておく。
 
 1945年6月23日 小絲源太郎近作洋画展覧会(~25日、田園調布・自宅画室)。
 ⇒田園調布三丁目西町会「町会隣組回報」第27号、渋沢秀雄:<本土決戦の叫ばるゝ今日、畏友小絲源太郎画伯が珠玉のやうな近作を選んで、特に「画室展覧会」を公開してくださる由、箙に梅をかざしていくさの庭に臨んだもののふの襟懐を忍びつゝ、画室の中で清純な芸術の芬郁にひたる愉しさは、どんなにか人の心をゆたかにすることでせう。敢て町会の諸彦に御一覧をおすゝめいたす所以であります>。
 
 小さな出来事に関する事実を年表に記し、記録してゆく時に、それを行った人物とその営為に対する敬意と感動をもって記録したい。歴史に学ぶとは、過去の人の営為への敬意と感動があってこそなしうることだとあらためて青木先生の言葉を読み返している。

 青木先生は、同書のなかで、川上澄生についてこう書いておられる。

  <澄生は長く勤めた宇都宮中学を退職し、自分の意志を狷介に時流を無視して表現した稀有な作家だった>。
  <他人がほめてもくさしても喜こびも怒りもせず、狷介に自分だけのために仕事を進めた>。
  <非戦を貫くという澄生の机辺・掌中の作品群は厖大な数の戦争記録画と鋭く対立するものとして戦時下の重要な記録画であろう。>
 
  <戦争に非協力という意味では「反戦」ではなくとも「非戦・否戦」を貫ぬいた孤独・独尊の作家川上澄生を視野に入れないで戦争記録画を論ずることは出来ない>。


 まったくその通りだと思う。時流に乗った「大きな大観」に比して、この「小さな澄生」の営為にこそ今の僕らが大切にすべきものがある。
 「小さな澄生」の眼で、戦時下日本美術の探求を続けたい。
   

 

 川上澄生 初夏の風 制作年不詳