猫の後ろ姿 2235 「文人」という生き方 | 「猫の後ろ姿」

猫の後ろ姿 2235 「文人」という生き方

 画家・榎並和春さんが23日のブログでこう書いておられた。

 私は絵のようなものを描いて生業にしていますが、純粋な意味で絵を売っているのではない気がするな。「絵描きという芸」を切り売りしているのではないかと。純粋に絵を売りたい人は真似してはいけないような気がするな、絵を売りたい人はもっと技術を磨いた方がいい。私がもっぱら得意とするのはあーでもないこうーでもないくだらないことを日々考えることで、例えば「思索家」とか「散歩家」などとうそぶいて、自分の幼稚な思索を繰り返して絵にしたり、文章にして恥をさらしてゆく。そういう芸を売っている。その見返りにお布施とかご喜捨としてお代をいただいているのではないか。これを何というのだ。

 「思索家」とか「散歩家」という自らの在り方を何と言うのだと自問しておられる。僕は辻邦生にならって、「文人」という言葉がいいと思います。辻邦生『銀杏散りやまず』にこうあります。

 自らの内部で充実し納得された生をこそ求める生き方がかつてあった。
<だが、こうした自らの内部で充実し納得された生は、他者の評価の受けようがないので、結果的には、単なる変人と変りがない。「木はその実によって知らるる」という苦(にが)い言葉が真実であるとすれば、この孤独者の生は、無でしかないのである。しかしこの社会的な無に徹し、隠者に徹することによって、主体の疑いようのない充実と高揚を昧わうのが、江戸まで確実につづいた芸術家、文人の生き方であった>。

 社会的な無に徹し、隠者に徹することによって、主体の疑いようのない充実を求める、こういう生き方の流儀を「文人」と辻邦夫は呼びます。この国の江戸期まで、社会の一隅にこういう「文人」が確かに生きていました。
 こうした内部での自足と充実があってはじめて、人間の日々が静かな声で語られる。「文人」とは、<人の一生を自ら納得しつつ暮らすという生き方>を求める人なのだと僕は思います。僕もまたこのような文人でありたいと強く願います。