猫の後ろ姿 1703 清水昭三『文学と天皇制』 | 「猫の後ろ姿」

猫の後ろ姿 1703 清水昭三『文学と天皇制』



  昭和天皇は平和を愛し、国民の暮らしを大切にしたと、耳にし、眼にする。しかし私はそれを信じない。
 もしその通りならば、「何故天皇は宣戦の布告をしたのか? 戦争をどうして許したのか? 平和愛好の天皇が一体どんな訳があって、開戦を、挑戦を、殺人を、幸福の破壊を許したのか?」。
 私も氏のこの言葉の通りに、「この一点にこだわるのである」。最高権力者として開戦を命じた事の責任を取るべきでありながら、戦後、アメリカの世界戦略に巧妙に同調する事で天皇と天皇制支配権力は安泰を得た。それは今も尚生き続けている。
 だからこそ、今、天皇制を問うことは自らの思想と生きる姿勢を問うことなのだと僕は思う。
 
 「天皇の地位は、主権の存する国民の総意にもとづく、という規定の裏には八千万の総意の不可能性が潜むことを意味している。」
 この言葉はわが「日本国憲法」内部に仕掛けられた爆弾にも等しいものを明らかにしている。国民の総意などというものは本来判定不能なものであり、「象徴」である事を越えて、国家の「元首」たることが国民の総意という名のもとに決定される日が来るかもしれない。「国民の総意」という不可能性が爆発する日を僕は恐れる。

 この本には、最終章に、甲州が産んだ特異な思想の実践者たち、渡辺政太郎・金子文子・宮下太吉に関する文が収められている。私もかねて彼らの事績に関心を持ってきた。
 なかでも渡辺政太郎は私にとって最も慕わしい人物として今も心に在る。「雨の中を、前かがみになった、みすぼらしい男のうしろ姿」。
 「わたしは、渡辺政太郎の一生が、なににも増して、美しく見えてならないのである。」 この一行は私の渡辺政太郎に対する思いとそのまま重なっている。