第一章 事件編

 

 売れっ子アイドルの西本澪は、この日が二十一歳の誕生日だった。同じ事務所のスタッフが企画してくれたバースデイパーティーに参加し、帰路を一人でたどっていた。街灯の少ない夜道なので、いくら歩き慣れた道とはいっても、警戒心を抱かずにはいられない。家まであと数十メートルまで来たとき、西本は背後から人の気配を感じた。少し立ち止まって耳を澄ますと、荒い息遣いが聞こえたような気がした。「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、速度を上げたが、気配は消えるばかりか強まっていく。西本は意を決して背後を振り返った。すると、大きな人影がはっきりと見えた。西本は声を出すことも走り去ることもできず、その場に立ちすくんだ。人影が近づいてくる。少しずつ姿が見えてくる。巨体の男だ。男は無言で西本の至近距離まで来た。夏だというのに長袖のネルシャツを腕まくりしている。そのためか、全身に大量の汗をかいている。そして、西本の顔を見ながら、ズボンのポケットに手を入れて何かを探り出した。刃物だ。そう直感した西本は、バッグから護身用に備えていたスタンガンを取り出し、一瞬ためらいながらも、男の前腕に当てて電流を流した。男は悲鳴を上げる隙もなく、体を痙攣させてその場に倒れた。死んだのか気絶しただけなのかはわからない。西本はただただ夢中で自宅まで逃げ込んだ。

 

 帰宅した西本は、ペットボトルの水を飲み干し、何とか自分を落ち着かせようとした。自分は身の危険を感じた。だから咄嗟にスタンガンで自分の身を守った。これはれっきとした正当防衛だ。たとえ男が死んだとしても、罪に問われることはない。しかし、法的に裁きを受けなくても、アイドルとしてのイメージダウンは免れられない。今後の芸能活動に間違いなく悪い影響を及ぼすだろう。そう思った西本は、事務所にも警察にも通報しないことにした。周りには誰もいなかった。自分がシラを切り通せば、誰にもわからずに隠し抜くことができるはずだ。西本はスタンガンの先端を丹念に拭き取り、そのまま床に就いた。

 

 翌朝、西本のマンションに刑事が来た。鳥巣と河村だ。

「朝早くに恐れ入ります。実は、ここのすぐ近くで、男性の遺体が発見されました。死因は心臓発作だと思われますが、胸ポケットに入っていた携帯電話が壊れていまして、ただの病死ではない可能性があるのです。そこで近隣のお宅に聞き込みをして回っております。何か不審な物音を聞いたとか、どんな些細なことでもいいですから、何か心当たりはございませんか?」

 「いえ、何も聞こえませんでした。」

 「……? ひょっとして、西本澪さんですか? よくテレビに出ておられる。」

 「ええ、そうですけど。」

「いやぁ、お目にかかれて光栄です。」

「あの……、これにサインを。」

 便乗しようとした河村を手で制し、鳥巣は続けた。

「何も聞かれなかったわけですね?」

「はい。昨夜はずっと家でテレビを見ていましたので、物音がしたとしても、聞こえなかったんだと思います。」

「……そうですか。 どうも朝早くに失礼いたしました。」

 それだけ言うと、鳥巣たちは別の部屋に聞き込みに行くために去っていった。

 

「河村くん、彼女と被害者の関係をあたってくれますか?」

「えっ? 澪ちゃんを疑っているんですか?」

「彼女ね、昨夜の自分のアリバイについて話していましたよね? 被害者が昨夜のうちに死んだことを知っていたんですよ。」

「だからと言って……」

「今朝死んだのかもしれないのに、『昨夜』って決めつけるのは、妙だと思いませんか?」

「あぁ、たしかに。」

 

 鳥巣と河村は、近隣への聞き込みを終え、現場へと戻った。ちょうど鑑識の結果が出たところだった。

「鳥巣さん、今思い出したんですが、あの被害者、生粋のアイドルオタクとして界隈では超有名人ですよ。ストーカー被害に遭ったことのある子もたくさんいるみたいです。無言で近づいてくるからめちゃくちゃ気持ち悪いって。」

「詳しいですね。」

「僕も、アイドルの追っかけやっていますから。」

鳥巣は河村から調書と遺体発見直後の写真を受け取り、目を通した。遺体の写真を見たとき、鳥巣の目にある光景が目に留まった。

「あれ? これはどういうことでしょう。」

「どうかしましたか?」

「被害者の遺体の写真、右手がズボンのポッケに入ったままですね。」

「あっ、ほんとですね。何かを取り出そうとしていたんでしょうか。」

「被害者の遺留品は?」

「こちらです。」

 河村が遺留品を手渡すと、鳥巣が含み笑いを浮かべた。

「河村くん、このカードはどこに入っていたのですか?」

「あぁ、それはズボンの右ポケットに。」

「やはりそうでしたか。もう一つ、例のアイドル西本澪の誕生日を調べてください。それがわかれば事件は解決です。」