第一章 四年前
「ばあ、何やっとるの。」
夜の八時に、ばあがおめかしをしているのだ。
「もうすぐデイサービスの人が迎えにくるから、支度しとるんだが。」
たしかに、ばあは週に二回、デイサービスに通っている。朝の八時に送迎車で迎えにきてもらえる。しかし、今は夜の八時。
「今は夜の八時だぞ?」
と貞夫が尋ねるも、ばあは、
「テレビに八時って書いたるがや。」
と言って譲らない。
こんなことが、一回だけでなく、短期間に何度かあった。今思うと、これがばあの終末の始まりだったのだ。
貞夫の家族は大所帯ではなかった。貞夫は一人っ子で、嬶とじいばあとの四人暮らしだった。親父は物心がつく前に蒸発していて.貞夫は一度も会ったことがないし、どんな人かもほとんど知らない。じいは貞夫が高校生のときに病死したので、ばあ・嬶との三人で生活していた時期が長い。しかし、五年前に嬶が先に死んだ。こちらも病死だった。そこから、貞夫はばあと二人で生活することになった。ばあは九十歳を過ぎていたが、自分の身の回りのことくらいなら自分ですることができた。何なら八十代後半まで自転車に乗っていたほどだ。貞夫は平日の日中は仕事で留守にしていたが、ばあを一人家に残しておくことに、とくに不安はなかった。
ばあの様子が不穏になったのは、嬶が死んで少ししてからだ。前述のように軽い見当識障害の症状が見られたり、自分で高いところの物を取ろうとして転倒したり、体がダルいと言ってデイサービスを勝手に休んだり、ひいては、嬶の三十五日法要に出席できないと言い出したりと、年齢相応の心身の衰弱が見られるようになってきたのだ。そして、ついには足が痛くて立てないと言って、ほぼ寝たきりになってしまった。ケアマネージャーに相談して、病院に連れていくことにした。
ばあを病院に連れていくために、貞夫は仕事を休んだ。そして、いざ出かけようとすると、
「立てんで病院は行かせん。」
と、ばあは通院拒否をし始めた。何度も説得して起こそうとしたが、ダメだった。わざわざこのためだけに仕事を休んでいた貞夫は、さすがにしびれを切らして、
「いい加減にしやあ。そんなことばっか言っとるなら救急車呼ぶぞ。」
と怒って、結局通院は諦めた。
ケアマネージャーに再び相談をした。事態が深刻だと理解したケアマネージャーは、即座に施設入所を検討してくれた。そして、嬶が死ぬまで入っていた施設にかけ合ってくれて、その日のうちに入所できることになった。
態勢が整ったのはよいのだが、問題は、ばあをどう説得するかということだった。病院に行くことでさえ渋っていたのを、無期の施設入所なんて、受け入れてくれるはずがない。しかし、施設への送迎車が来る時間が決まっていたので、それまでに説得しきらなければならない。
貞夫は、丁寧にばあに話をした。状況が深刻であることを強調しすぎず、しかし、施設に入る必要があること、自分で動けるようになったらすぐに家に戻れること、利用料は年金で相殺できること…。
最初はばあも渋っていた。だが、最終的には折れてくれたようだった。ただ、施設に行くのを観念したときのばあが、目に見えてわかるくらいに寂しそうな顔をしていたことを、今でも忘れることができない。ひょっとしたら、ばあは悟っていたのかもしれない。もう家には帰ってこられないことを。
