熟田津の歌碑 除幕・落成式の様子
熟田津歌碑誕生 近藤みさ子 まぶしく晴れ渡った秋空に、綿繍をまとった御幸山が、くっきりと美しい。十一月二十三日、国旗のあざやかにはためく県護国神社の大鳥居をくぐって、参列者が続々と集まる。 熟田津歌碑除幕式の当日である。 一同座につき開式数分前に、司会役の和田禰宜が白の浄衣でマイクを前に威儀を正し、副碑文を朗々と読み上げる。 「…時は来た!十五夜の月はまさに出でようとし潮は満ちふくらんできた…」 広い野外の式場の空気も、いよいよ始まろうとする除幕の一瞬に向って潮のように満ちふくらんでくる。 一時きっかり、秋空を震わせて花火が数発とどろき、いよいよ祭典は開始された。一同起立して国歌斉唱。 護国の英霊の鎮まります浄らかな神域の西方の丘、松山城と対峙し、遙かに海をのぞむ方向に、熟田津歌碑が白布に覆われて立ち、その周囲に来賓百余名、さらに丘を下れば池の周囲をめぐって約一千名の参列者が、君が代の永遠(とは)の栄をことほぎ歌い、続いて護国の御霊やすかれと祈る。 護国神社拝殿に向って深く頭を垂れるとき、はるか千三百年の昔、百済の白村江を赤く染めて散った伊予水軍を思い、今の世と遠い昔をつらぬく熱い思いが流れた。 開式太鼓の肺腑を揺り動かすような深い音が御幸山にこだましてひびく。おおどかに、また激しく、晩秋の空に打ち鳴らし込む大太鼓の音の爽快さ。天地開闢のひびきである。力づよい生命の歌碑生誕の前ぶれである。 正岡禰宜、うやうやしく祭壇に進み、大祓の奏上。今日はマア特別仕立てかと思われる大きな幣帛(へいはく)でお祓いを受け、参列者一同心魂の隅々まで清浄。 いよいよ除幕。一同起立して見守るうちに愛媛県知事(代理松友出納長)が歌碑の前に進み、紅白のリボンを引く。雅楽の清澄な曲が静寂を流れ、その嫋嫋(じょうじょう)たる流れの中に白布が静かにすべり落ちる。うす緑に石英の白が満ち来る潮のように紋様を描いた美しい歌碑の肌が現れる。歌碑誕生! 熟田津爾船乗 世武登月待者 潮毛可奈比沼 今者許芸乞菜 一千の参列者、否、木も草も鳥も、木の間を往きかう風までも、ありとあらゆるものすべてが、一瞬、ひたと息をひそめて生誕を見守る。 さやかな秋の光の中に、優容せまらず鎮まる歌碑の見事さ、 ああ、何という美しさ!力強さ! 先年の過去に語りかけ、千載の未来に呼びかける声明の賛歌! 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな! 「古今の絶唱、熟田津歌碑、ただいま除幕せられました…」進行の和田禰宜の声も感動にふるえ、胸迫り熱いものがこみ上げて来る。 やがて、土居宮司が、うやうやしく祭壇に額づき、今日の祭儀にかかわりの深い神々様をお迎え申し上げる。降神の儀である。雅楽の幽玄の調べの中に、神を呼び奉る声がひびき渡る。 神々を、この庭にお迎えするということが、今日ほどぴったり感じられることはない。秋山の大自然の中で行われる神と人とのかかわり合いは、一そう自然そのものである。 御酒を奉り、海山の幸をささげて神々をうやうやしくおもてなしし、やがて神と人とのうたげが始まる。なつかしく手をとり合って笑いさざめく産土(うぶすな)の神々、大地主(おおとこぬし)の神々たち…これは幻想ではない。自然を忘れた現代人が見失っている真実である。 雅楽は荘重な祝歌(ほぎうた)を奏し、澄み切った空に(笙しょう)の音色が溶け入ってゆく。あの音色は自然から生れ出たものであろう。楓や松の疎林を縫うて流れる雅楽は、そのまま木々の葉ずれの音であり、風とせせらぎの調べでもある。 土居宮司神々の御前に祝詞を奏し奉る。 「…御幸山の松の緑のときはかきはに色増し添えて四季の眺めも香ぐはしき愛媛県護国神社の御苑なる熟田津の歌碑の御前に…」 いまおごそかに告げ奉る歌碑の生誕。竹葉会長の御顔が見る見る赤らみ、垂れた頸のあたりまでサーッと紅潮した。神々も聞し召せ。この建碑の意義を! 神代いざなぎ、いざなみの「いざ!」の霊気発動して万物成る。「いざ!」の心気の充実を今の世に取り戻させ給え!日本本来の創造精神へのルネサンスの碑たらしめ給え。民族と人類の未来を思う純真な心が凝ってこの碑となる。神々も聞し召せ。後の世までも言い継ぎ語り継ぎ、子の心を万世に咲き匂わせ給へ! 玉串拝礼は、土居宮司、祭主竹葉会長、施工者大谷伊三郎氏、県知事(代理松友孟氏)、松山市長(代理得能通任氏)、参列者代表平田陽一郎氏、そして児童代表として御幸中学校生徒男女二名の順で行われた。幽邃(ゆうすい)な奏楽の流れに沿うて、一人一人万感を胸に神前に額づく。中学生の二名が、いがくり頭とおかっぱを深々と下げたとき、この年若き者の心にこそ、碑の精神が言い継がれ語り継がれよ、と祈る思いで見守った。 最後に清吟堂吉岡清風氏の玉串拝礼と献吟。熟田津の歌を吟ずるのは、この人を置いて他に無い。誠ひとすじのその吟は腹の底から揺り動かされるような感銘を受ける。竹葉会長と意気合いゆるした吉岡氏は、建碑の話が起ると清吟堂一門二千余名を擁して馳せつけ、片腕となって活動された。今神々の御前に一世一代の真剣な吟をもって熟田津歌を献じ終え、引き続いて、清吟堂石丸清泉氏の吟による竹葉先生作の「額田の王」。それにあわせて山本江代氏が舞を神々に献ずる。紅袴のさばきもあざやかに、白の水干(すいかん)の袖をひるがえし、神前に舞う美しさ。 幾百の軍船ぞ明月の滄(うみ) 雞林遙かに望む大兄皇 熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 額田王一詠して 船団発す 伊予の水軍 気まさに鋼なり 紅葉が一ひら二ひらと舞い乍ら、かざす白扇に、また長くすべらせた黒髪に散り、「秋山われは」と、こよなく秋を愛された額田王が、秋の精の化身となってここに舞うか…とも思われてしばらく現(うつつ)とも幻とも分たぬ幽玄の境にある心地がした。 舞い納めたあともしばし感動のどよめきがおさまらず、今日の除幕式の如何に美しく雅やかであることか、舞いあり音楽あり、吟あり、太鼓のとどろきより始まって一糸みだれず大自然のかなでる韻律とともに流動する祭典の見事さ。 再び肺腑に滲み透る笙ひちりきの調べとともに昇神の儀。神々をお送り申し上げ、祭典の閉会を告げる太鼓が早打ちでとどろき、神事の終りを打ち納めた。 続いて式典に移る。竹葉会長式辞。紋付き羽織袴の正装に威儀を正し、竹葉会長は丘の上の碑の前に立たれて式辞を述べられた。(熟田津の歌碑 除幕・落成式 式辞) 熟田津歌碑建立は、先生の三十余年来の念願であったという。それも単に文芸懐古の趣味からというよりは、むしろ日本の未来を拓く歌として、太古神生みの創造精神回帰の碑として建てることを念願された。ともあれ、純一無雑な先生の御人柄が、ここ数十年、熟田津の場所の問題で難航していたのを、一挙にこの聖地を選び実現せしめられた。先生は語り継ぎべきことごとを順序立てて、中学生たちにも優しく呼びかけ、建碑の真情を吐露された。錦繍山上の垂訓とも云うべきか。 経過報告、大任を仰せつかりマイクの前に立つ。雪山に石を求めて歩いた日のこと、潮のように押し寄せてくる拠金の領収書を書くだけに幾晩も徹夜の続いたこと。九十六円などという山村の小学生の一円募金に、思わず目頭を熱くしたことなど…励ましの手紙も数知れず、竹葉先生の呼びかけに応じて立ち上がって下さった数万の方々、この碑そのものが、いざ!の呼びかけにいざ!と応える心気の発動の結晶なのである。あれこれと万感胸に溢れ、言葉の足りないのを恨みつつ御報告を終えた。(熟田津の歌碑落成までの経過報告) 続いて感謝状の授与ならびに表彰式。感謝状 大谷伊三郎殿 貴殿は 額田王の熟田津歌碑建設にあたり 一徹なる精神と卓越せる技術をもって、これを完成されました この碑はまことに後世にのこして誇るに足り 天下の人をして絶賛せしめるものであります よってここに記念品を贈り 深く感謝の意を表します 昭和四十二年十一月二十三日 熟田津の歌を讃うる会一徹名人肌の老石工大谷さんの肩が小きざみに震える。竹葉先生の意を汲み、心魂を傾け尽くしての建碑であった。 次は 感謝状 愛媛庭園研究所殿 貴殿は この度護国神社に額田王の熟田津の歌碑を建設するにあたり その周囲に万葉庭園を計画いたしましたところ よくその意を体し それにふさわしいものを完成されました よってここに感謝の意を表します 昭和四十二年十一月二十三日 熟田津の歌を讃うる会碑を頂点として、なだらかな傾斜を利用し、池をかこんで豪壮な万葉庭園を作っていただいたが、殆ど儲けを度外視しての奉仕によるもので、荒れた山容が一変し、さらに将来の万葉庭園植物園への構想も立てられつつある。 次に 賞状 大城光重殿 貴殿は額田王の熟田津の歌碑建設にあたり その歌曲募集に応募され 第一位に入選されました よってここに之を賞します 昭和四十二年十一月二十三日 熟田津の歌を讃うる会山畑の仕事をし乍ら口ずさみ、この曲が生まれたという。清明ですなお。しかも気品も高い。大勢の専門の作曲家に混ざって見事一位を得られた。大きく拍手がひびく中で賞状を受けられる。 次に 感謝状 坪内光義殿 貴殿は 額田王の熟田津の歌碑の拓本を心魂を こめて作成されました この拓本は 永久につたえられ 人の心に及ぼすところ大なるものがあると思います よってここに深く感謝の意を表します 昭和四十二年十一月二十三日 熟田津の歌を讃うる会今夏の酷暑の中で、歌を刻んだ庵治石(あじいし)を自宅に搬入し、精神をこめた奉仕により出来上がった拓本百五十枚。夏休みを返上し、徹宵徹夜も数度。出来たものは氏の銘入りの逸品である。 次に 感謝状 久門忠夫殿 貴殿は 額田王の熟田津の歌碑建設にあたり 崇高にして豪壮優美なる碑石を心よく提供していただき 後世にのこして誇るに足る見事な歌碑を建てることができました ここに深く感謝の意を表します 昭和四十二年十一月二十三日 熟田津の歌を讃うる会拠金された方々はもとより、石屋さんも、石工さんも、造園士も、すべてが利益を度外視しての御奉仕である。有難く、清らかなことである。 このことについて、この歌碑建立の清らかさについてであるが、この歌碑には、副碑にただ「熟田津の歌を讃うる会」とあるのみで、誰が碑文を作ったとも、誰がこれを書いたとも、一人として名前が入っていない。畢生(ひっせい(の作と石を刻んだ大谷老の名すら刻まれていない。これが「空」ということであろう。神々のみわざなのである。発起した人あり、石を運ぶ人あり、刻む人あり、四方よりの諸々の浄財あり、それらすべては神のみわざに帰する。清らかな所以である。空の空なるもの、四千貫の巨厳(きょがん)はそのまま、空ながら色、色ながら空、これ即ち神ながらであり、不増不滅の清浄身である。名前を刻んで永久に残そうなど、あつくるしくてやり切れない。それを無明の業(ごう)という。無明の業は文明にあらず、神々のみわざとして鎮まるこの歌碑をこそ文明という。 さわやかな秋の陽ざしに立たれた松友孟氏は、歌碑建立の真の意義を深くふまえて、きたる明治百年の飛躍の年に想いを馳せ、歴史観に立っての碑の意義を述べて祝辞とせられ、松山市長(得能助役)は歌と詩の町松山市にこの雄渾壮大な歌碑の建立されたことを祝され、続いて、あららぎの歌人弘田義定氏が感動に声をつまらせながら、さすが万葉を敬慕熱愛する人として祝辞は万葉集のなり立ちから、その中での代表作として熟田津の歌の価値、またこの歌にまつわる諸説にも及び傾聴させたが、この祝辞は氏が改めて加筆の上来月号に掲載させていただくこととしたので御期待ください。(熟田津の歌碑 除幕・落成式 祝辞) 最後に、愛媛県歌人クラブの佐伯秀雄氏が立たれて「浮びましたる一首を祝歌(ほぎうた)としてここに捧げます」と、 いにしえの 人も見にけむ 丘の辺に 碑(いしぶみ)たてり とはのことほぎの一首を献ぜられ、それを清吟堂吉岡氏夫人麗峰氏が玲瓏(れいろう)と詠い上げられる。先年の昔が、そのままに今につながる心地がして、この丘の紅葉の散り敷くあたりに往年の佳人が佇むかとも思う。 いよいよフィナーレの熟田津の歌の大合唱になった。御幸、道後、勝山の歌碑建立の地にゆかりも深い各中学校生徒五百名が、御幸中吉田雅彦先生の指揮で、ブラスバンドの伴奏にあわせて歌う。 にぎたつに ふなのりせむと 月まてば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 二度歌ううちに全参加者が加わって千名の大合唱となり、晴れやかな秋空いっぱいに歌声がひろがった。それに続いて清吟堂二百五十名の合吟、「額田王」竹葉秀雄作。さすが練りに練り、錬えに錬えた二百五十人の声は、天地をゆるがすひびきがある。 千古の昔に響け、千載の後の世に響けと詠う壮大な調べをもって、落成式は荘厳にして格調高く歌い納められたのである。昭和42年12月1日発行 ひ誌 第119号 より