田中伸尚『ルポ 良心と義務――「日の丸・君が代」に抗う人びと』(岩波新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 今度,「世界と闘うための新書100冊」みたいなタイトルで,新書に限定したガイドブックを書こうと思っていて,その100冊というのはまだ決まっていないのだが,田中伸尚さんの本書は是非その中に入れたいと思う。

 

 1999年の国旗国歌法の制定以後,学校に「日の丸・君が代」が半ば強制的に導入され,次第にその強制の度合いを増していく中で,その理不尽な強制に抗い,異議を申し立てる人々(教職員・元教職員,保護者,子どもたち)がいた。本書は,そうした人々の姿を追ったルポルタージュである。

 

 国旗国歌法は,「日の丸」を国旗,「君が代」を国歌とするというだけの定義法だったが,法制化以後の現実は,事前に危惧された通り,学校現場への「日の丸・君が代」の強制――事実上の義務化――が全国的に進んだ。

 

法制化後の現実は,一人ひとりの自由を尊重し,自主的で自律的な市民をつくるという戦後教育の責任と義務がひっくり返されて,子どもたちの良心を押しつぶし,奪っている。それに現場教員がどこかで加担している。(中略)ともに協力して生きる生き方を育み,一人ひとりの違いを認め合うことを身につけるよう期待されている教育が,上からの指示や命令に従い,また友を蹴落としても競争力を身につける子どもづくりに,教員を動員して進められていく。戦後教育は,「日の丸・君が代」強制に見られるようにいま切岸に立っている。

(田中伸尚『ルポ良心と義務』岩波新書p.11)

 

 こうした「日の丸・君が代」強制に抵抗する人々の拠りどころは,個人の思想・良心の自由である。日本ではそれまで十分に議論・検討されてこなかった《良心の自由》という問題が,「日の丸・君が代」問題を機に,子どもの権利条約とも重ねられて,基本的人権としてスポットが当てられることとなった。

 

 例えば東京都では,2003年に悪名高い「10・23通達」が出され,「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり,教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は,服務上の責任を問われる」とされた。都立学校の教員であったTさんは,入学式や卒業式で「君が代」に起立斉唱しなかったために懲戒処分された。Tさんにとって「日の丸・君が代」は,かつて日本が行った植民地支配や侵略戦争のシンボルであり,平等な社会に反する天皇を崇拝するための装置であった。そのような自己の生き方の核にある思想・良心を,Tさんは侵されたくなかったのである。Tさんは次のように語る。――

 

「教育の現場」は,強制されない,思想や良心の自由が認められる世界だという思いが,私には強い。ただ,私のいる現場は,肢体が不自由な子どもたちが主人公です。障害の重い子どももいます。そんな子どもたちに「日の丸・君が代」をどういうふうに教えればいいのか,悩んでいます。・・・私は基本的人権は,誰にも保障されなければいけないし,教員としてというより私個人の思想・良心の自由なんです。それは,生徒も同じだと思う。教員の人権が侵されるということは,生徒のそれも侵されるということだと思うので,私は自分の思想・良心の自由にこだわりたい。

(同書p.60~p.61)

 

 「橋下恐怖政治」が猛威を振るった大阪府では,「日の丸・君が代」強制条例が作られた。府の施設での「日の丸」の常時掲揚,府下の公立学校の行事での「君が代」起立斉唱を義務づけた条例である。条例であるから当然,東京都の通達よりも強制力は強い。「強制の法制化」と言えた。さらに橋下府知事は,教育基本条例を定め,「君が代」起立斉唱の職務命令に3回従わなかった場合は分限免職できるなど,政治による教育支配を推進し,教員服従を強化した。

 

法令によって教職員の自由を奪っていくいま,大阪で起きている状況には,底なしのような暗さが漂っている。教育現場にとっては酸素である思想・良心の自由が死に絶えるのではないかと思うほどだ。

(同書p.42)

 

 このような教育への露骨な政治介入に対し,何とかストップをかけようと抗う人たちが,圧倒的に少数だが確実に存在した。「闇深ければ,星の光は愈々輝く」で,こういう名もなき人びとが抵抗する姿に読者は勇気と希望をもらうだろう。だが闇は深く,しかも広い領域を覆っているのも現実であり,私たちはそうした厳しい現実をしっかりと直視しなければならない。

 

 私が本書を読んでいて闇が深いなと痛感したのは,「日の丸・君が代」の強制を強制と感じていない現在の学校現場の状況である。すなわち異論や反対を封じて「日の丸・君が代」が学校に導入され,知らないうちに定着してしまったのだ。そこが一番問題だと思うわけである。「日の丸・君が代」強制に対して,少数でも抵抗者がいなくなったら,個人の内心の自由や表現の自由を大切にする教育は終わりだと思うからだ。

 

・・・強制を強制と感じない教員がふつうになっている。かつては「日の丸・君が代」を,教育現場にもっともふさわしくない装置として拒んできた教育の世界で,その是非だけでなく,強制さえもほとんど論議されない状況が日常化しているのだ。

(同書p.82)
 

 

 東京都や大阪府などの行政権力は,「日の丸・君が代」をいわばツールとして,このような「物言わぬ・物言えぬ」教員や,上からの指示・命令に忠実な校長を多く作り出した。それが行政側の真の目的であったと言える。このような多数派の「沈黙」が学校現場での「日の丸・君が代」強制を支えているのである。

 

・・・多数派の,ことの善悪や己の良心を脇に置き,あるいはそれを捨てて上司の命令に従ういわば「アイヒマン的」校長こそが東京だけでなく各地の強制を支えているのである。

(同書p.80)

 

・・・日本では,憲法で思想・良心の自由が保障されているといっても,実生活の中に,それが根付いていません。それよりも,出る杭は打たれるとか,物言えば唇寒しといった処世訓のほうが世間の憲法なんですね。だから教育現場でこういう強制が行われていることが,日本全体にとってどういうことなのかという議論にならない。何かを恐れてそれが広がっていかないんですね(中略)

・・・人間社会は力関係だということが刷り込まれていて,自分の思想や良心や信条に従って生きるよりも,力のある人にまずい態度をとって失敗することを恐れる。それが大方の人が選ぶ生き方なんですね

(同書p.223~p.225)

 

 本書のルポを通じて学んだことは,権力による強制に対して

 ★決して沈黙しないこと,

 ★自己の良心に従って抵抗すること

の大切さである。と同時に,強制をいち早く察知する能力や感性も必要だと感じた。強制を強制と感じ取れなければ,反対の声も上げられないからだ。アイヒマンのように善意で職務を遂行していると信じ込んだまま,強制に加担していることもあり得るのである。

 

 最近の話題でいうと,修学旅行で大阪万博に行くというのも強制に近いものを感じる。メタンガスが充満し爆発の危険さえある夢洲では児童・生徒の安全を確保できないと判断するのが合理的だと思うし,実はIR(カジノ)誘致のための万博であったという事情を鑑みれば,夢洲は修学旅行先として教育上ふさわしくないのは明白であろう。しかし,それでも大阪万博を修学旅行先に決めたということは,そこに何らかの強制力が働いているからであろう。すなわち,万博の入場者数を一人でも増やしたい日本政府や維新の会,大阪府などから各自治体に何らかの強い働きかけや利益誘導があったと考えられるわけである。そこでもアイヒマン的な校長や教員は沈黙し,上からの指示・命令にただ従って子どもたちを夢洲に引率していったということなのだろう。

 

 身近に理不尽な強制がないか,常に敏感でありたいと思う。それにしても驚いたのは,下の記事に出ている呂布カルマという名古屋のラッパーが万博権力による強制動員に加勢していることだ。上からの強制や圧力に敏感であるはずのラッパーが万博批判の声を封殺しようとしている様は滑稽でさえある。少数の虐げられた者たちの代弁であったラップが権力にへつらう負け犬の遠吠えに成り下がってしまったわけだから。

 

 このように権力に迎合して少数者の声を抹殺しようとする言論に対しては,徹底的に闘おう!たとえ闘う者が圧倒的に少数であったとしても。本書はそのことの意義を伝えている…