評論家の太田昌国さんが大谷恭子さんの追悼文を書いてくれたので,上にリンクを貼っておきます。是非,読んでいただきたい。刑務所改革や受刑者の待遇改善のために尽力していた大谷さんの知られざる側面が紹介されていて,ここにも「弾圧され,孤立した人の側」に立つ大谷さんの姿が明らかにされている。前にも書いたが,大谷さんの活動を振り返ると,社会の矛盾がどこにしわ寄せているかがわかる。
関わった主な事件を取り上げると,三里塚小泉よね強制代執行取り消し事件,永山則夫連続射殺事件,永田洋子連合赤軍事件,金井康治自主登校事件,アイヌ肖像権裁判,地下鉄サリン事件,重信房子ハーグ事件,目黒区児童虐待死事件――となる。これらの背後からは,その時々の政治状況と人権状況が透視でき,社会の底に澱のように溜まった矛盾が噴き出ていることが感じられる。
(上掲コラムより)
太田さんによると,この刑務所改革に関わる活動のさなか,大谷さんは東アジア反日武装戦線「狼」グループの確定死刑囚・大道寺将司と面会している。その時のことを,大道寺は次のように詠んだ。なお,この句は大道寺将司句集『棺一基』に収められてる(棺一基 大道寺将司全句集)。
二十年ぶりに某弁護士と再会して
蜉蝣(かげろふ)やわたし分ると問はれしも
こんな句があったのかと,書棚から本書を取り出して探してみた。あった。130ページ,二〇〇七年の項。読んだことがあるようなないような,はっきりとは印象に残っていない句だった。当時はさっと読み飛ばしていてたのかもしれない。だが,よく読めば,とても味わい深い句だ。「わたし分る」とは大谷さんらしいし,初秋,20年ぶりに会った大谷さんに重ねて「蜉蝣」を初句に持ってくるところに,大道寺将司のセンスが光る。
蜉蝣とは,時のうつろい,人の記憶のはかなさを感じさせる。だが,逆説的なことだが,こうやって俳句という形にすることで,うつろうこと,過ぎゆくことを記憶にとどめることができる。このように過ぎ去りゆくものをこそ,人は形にしたいと願う。俳句であれ,小説であれ,絵画であれ,彫刻であれ,何であれ…。不在を認識することは,死を認識することである。だから人間は死者を追悼し,冥福を祈る。
そのことをふまえた上で改めてこの句を読むと,本当に趣深い秀句だなと実感するわけである。大谷さんがもうここにはいないこと,しかしかつて確かに私たちの傍にいたこと――すなわち大谷さんの生と死を,私たちはこの句によって記憶にとどめることができる。俳句とは,時のうつろいを認識し,記憶の風化に抗う「共同の記憶装置」なのかもしれないなと思う。大谷さんがこの句をとても気に入っていたと太田さんのコラムで知ると,万感胸に迫る思いがする。
これを作句した大道寺将司ももういない。太田さんも書かれているように,大道寺らが起こした三菱重工ビル爆破事件から今年の8月30日で50年が経った。大谷さんは,東アジア反日武装戦線の弁護団には属していなかったが,控訴審で弁護側証人として証言台に立っている。「反日」が侮蔑語となっている今日,大道寺将司らの東アジア「反日」武装戦線とは一体何だったのか,改めて問われなければならない。大谷さんは来年1月に予定されていた講演で,そのことに一つの答えを出そうとしていたように思える。演題は「同時代者の証言をした者として」であった。
大谷さんが何を語ろうとしていたのか,今となっては分からない。太田さんもそのことについては詳しく書いていない。ただ,東アジア反日武装戦線について一つ確かに言えることは,彼ら/彼女らが追及した戦前日本の植民地支配と侵略戦争の責任はいまだ明らかになっていないし,戦後もまた日本企業によるアジアへの経済侵略は続いているということである。さらには,彼ら/彼女らが爆破した「風雪の群像」に象徴される,和人によるアイヌ差別の構造はいまだ温存されたままだ。そのような日本の歴史と現実を厳しく見つめることで「反日」という視点が生まれ,それが彼ら/彼女らの思想となった。
彼ら/彼女らの運動を単なるテロ活動という皮相な理解で片づけてはならないだろう。すなわち東アジア反日武装戦線とは,日本の植民地主義と民族差別を最も根源的に批判した運動体であり表現方法であった。今を生きる私たちは,未だ彼ら/彼女らの思想と言葉を乗り越えられていない。その課題を見つめていた大谷さんは幻の講演で何を語ろうとしていたのか――その空白を言葉で埋めるのは私たちである…