パリの民衆,東京の群衆 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 東京都知事選の結果を受けての分析や論評がほぼ出そろった感じだが,私も事前に都知事選について散々書いてきたので,気が重いけれども一応の総括はしておくべきかと思います。

 

 私はどうしても同日にあったフランス総選挙(決選投票)と比較して見てしまう。左派・リベラル側が「新人民戦線」を結成して極右(国民連合)の政権入りを阻止したフランスと,創価学会や統一教会などのカルトが極右の現職都知事と元パワハラ市長を支援して,左派・リベラルを潰した日本――

 

 まあ,今回ほど日本における政治の劣化,市民の不在が,フランスやイギリスとの比較ではっきりした選挙はなかったのではないか,と率直に思う。左派・リベラル側が手を組んで「新人民戦線」を作れるかどうか,その差はやっぱり大きい。フランス革命やレジスタンスの歴史と精神を大切に受け継いできたフランス市民と,自由民権運動や大正デモクラシーという民主主義の歴史をおざなりにしてきた日本国民たち。極右の台頭や民主主義の空洞化に対する危機感や抵抗感が全然違うのである。

 

 イギリスの総選挙でも左派の労働党が勝利した。党首のスターマーは自らが「労働者階級」出身であることを誇らしげに語り,「社会主義者」と名乗ることに躊躇しない。イギリスの民衆はこういう人物が率いる左翼政党を支持し,政権を委ねた。フランスやイギリスの市民は,新自由主義的な経済政策や極右の排外主義に対する反発や危機感を根底で共有している。だから連帯して左派を支持できる。

 

 一方,日本や東京の有権者にはそのような危機感や現状認識はなく,政局や感情レベルでの確執や対立にいつまでも拘泥して,重要な政治局面に至っても連帯ができない。結果,極右や右派ポピュリズムの台頭を許してしまう。本来であれば,フランス総選挙のように,左派・リベラル側が連帯して蓮舫を支持し,極右政治家の三選を阻むという構図があるべき姿だった。だが実際は,極右・カルト側が結束して小池&石丸を支援し,リベラルを分断・粉砕するという最悪の逆回転現象が起こったのである。しかも,資本と対決すべき労働組合の中央組織である連合が,大資本と結託して開発と新自由主義を押し進める小池百合子を支持するというのだから話にならない。労働者団体が極右の民族差別主義者・新自由主義者を支持するというのは,ヨーロッパでは理解できない現象だろう

 

 要は,フランスでは市民,民衆が政治を決定するために結束したのに対し,日本・東京では大衆が市民として政治に参加することを放棄し,カルトが政治決定権を行使した。こうした対比において自然と浮かんでくる問いは,なぜ日本では市民,民衆が成長して力を持ち得ないのか,という論点であろう。なぜ日本には無知で愚かな,政治的に無自覚な群衆(大衆)しかいないのか――

 

 その点の分析には,トクヴィルやJ・S・ミルが唱えた「多数者の専制」という概念が有効だ。「多数者」とは,単なる数的存在ではなくて,一個の独自の存在である。すなわち「多数者」とは人間の塊であるところの群衆である。そして,それは必然的に「専制権力」なのである。これがトクヴィルの近代民主主義のとらえ方であった。

 

多数者の支配が絶対的であるということが,民主政治の本質である。なぜかというと,民主政治では多数者以外には反抗するものが何もないからである。

(トクヴィル『アメリカの民主主義』。今村仁司『群衆』p.152参照)

 

 多数者としての群衆は社会のすべてを呑み込んでいく。個人や階級を溶解させ,群衆の中に埋没させていく。これがトクヴィルのとらえた近代社会の必然的な傾向であった。個人や階級,階層の境界線が消えて,すべてが同質・一様でのっぺらぼうになる群衆社会が,専制権力を生み出すというわけである。専制主義が群衆を生むのではない。私たち群衆が専制政治や独裁者を生むのである。

 

 トクヴィルは「民主主義的デスポティズム(専制政治)」という言い方も使っている。つまり近代の民主主義とは,群衆という名の家畜的な群集が日々生産する政治権力とその制度なのであって,それは民主主義的な形式をとりながらも実質的に専制主義となる。アメリカやロシアのような平和的な大統領制を採ろうが,ナチズムやスターリニズムのような軍事的なファシズムの形を採ろうが,「民主主義的デスポティズム」という本質は変わらない。繰り返すが,群衆がこうした専制権力,独裁を作り出すのであって,逆ではない。

 

 まさに現在の日本の政治状況は群衆民主主義であり,「多数者の専制」である。無知で愚かな群衆が極右の民族差別主義者,新自由主義者を首長に選んだのである。これが「民主主義的デスポティズム」でなくて何だろうか。こうした「多数者の専制」「民主主義的デスポティズム」に抵抗する市民,民衆の運動がフランスの「新人民戦線」であった。

 

 日本で必要なのは,こうした「多数者の専制」→ファシズムに抵抗する運動(人民戦線)であり,それを担う自覚的・倫理的な市民,民衆である。日本にもパレスチナの旗を掲げる「不服従のフランス」が必要なのだ。だが日本にメランションはいるか,スターマーはいるか。すぐに名前が出てこないのが悲しい。日本にアタリやピケティはいるか。悲しいかな,知識人のレベルも違いすぎる。けれども今もガザで虐殺が続いている。昨日はイスラエル軍による攻撃で350人を超える死傷者が出た。私たちが立ち上がるしかないのだ。さあ,パレスチナの旗を掲げよう!日本版「人民戦線」を結成しよう!