大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 前回記事で書いた教養主義の観点から見れば,掲題の『沖縄ノート』は非常に意義のある書物であることは間違いないが,今のSNS世代からすれば,実利やビジネスに結びつかないこういう本は最も読まれない書物の一つにあたるだろう。というか,そもそも短文しか書いたり読んだりしない今のSNS世代にとっては,戦後派の大江健三郎や野間宏などの文章は難解すぎて読むことができないだろう。私は読書を通じて教養文化や社会批判を広げていきたいと考えている人間なので本書は是非とも多くの人に読んでほしいと思うが,こういう本の書評的な長文記事もまたほとんど誰にも読まれないのだろう。教養,特に人文社会知が軽んじられ,前回書いた小池百合子や飯山あかりのような無知・無教養な人間が支持される世の中は持続性が危うく,いつか来た道でもある。それゆえ,本書を取り上げる意義も小さくないだろうと思う。

 

 さて,『沖縄ノート』における大江さんの沖縄の描き方はやや一面的で美化しすぎているきらいがあるとしても,私は大江さんの沖縄への向き合い方は敬意をもって支持したいし,それは今も本土側の人間たちに求められている倫理的態度ではないかと思う。

 

 すなわち大江さんは,沖縄の痛苦をどこまでも自分のこととして受け止め,考えるという姿勢を本書で貫いている。大江さんは,沖縄から遠い本土の知識人として第三者的に沖縄を論評するのではなく,沖縄に犠牲を強いている加害者としての自らの責任を自覚し,沖縄の痛苦を共有することを通じて沖縄と関わろうとしているのである。その姿勢は,まるで自らをジャックナイフで傷つけ痛めつけているかのようで,読んでいて痛々しい。だが,そこまで自分を傷つけ痛めつけないと沖縄の苦しみは理解できないということを,大江さんの文章は滲ませている。

 

 本書の冒頭近くに,大江さんの友人で沖縄の新聞記者が書いた,沖縄の痛苦を表象する詩が掲げられている。

 

日本よ

祖国よ

そこまできている日本は

ぼくらの叫びに

無頼の顔をそむけ

沖縄の海

日本の海

それを区切る

北緯二十七度線は

波に溶け

ジャックナイフのように

ぼくらの心に

切りつけてくる。

 (本書p.27)

 

 大江さんは,沖縄を切りつけたジャックナイフの切っ先を自らの喉元に突きつけるために沖縄に向かう。

 

 僕は沖縄へなんのために行くのか,という僕自身の内部の声は,きみは沖縄へなんのため に来るのか,という沖縄からの拒絶の声にかさなりあって,つねに僕をひき裂いている。穀つぶしめが,とふたつの声が同時にいう。そのように沖縄へ行く(来る)ことはやさしいのか,と問いつめつづける。いや,僕にとって沖縄へ行くことはやさしくない,と僕はひそかに考える。沖縄へ行くたびに,そこから僕を拒絶すべく吹きつけてくる圧力は,日ましに強くなると感じられる。この拒絶の圧力をかたちづくっているもの,それは歴史であり現在の状況,人間,事物であり,明日のすべてであるが,その圧力の焦点には,いくたびかの沖縄への旅行で,僕がもっとも愛するようになった人々の,絶対的な優しさとかさなりあった,したたかな拒絶があるから,問題は困難なのだ。 (本書p.14)

 

 

 大江さんは,沖縄との連帯を求めながらも,「拒絶の圧力」によって引き裂かれ,傷ついている。それでも沖縄に行き続けた。先ほども指摘したように,自らが傷つくことでしか,沖縄で傷つき苦しんでいる人々を理解することはできないと考えているように思える。同時に,こうした「痛苦の共有」を求め続ける姿勢ゆえに,沖縄の表象を一元的に肯定するという論理的過誤に大江さんは陥ったのかもしれない。だが,本土/沖縄の分断を乗り越え連帯を結ぶのに最も大切な前提を大江さんは本書で示してくれている。沖縄民衆の痛苦を自分ごととして受け止め考えるという倫理的前提がなければ,どんな公明正大な論理も運動も民衆を動かすことはできないだろうからである。

 

 だから,できるだけ多くの人にこの『沖縄ノート』を読んでほしいと思うわけである。この本で語られる大江さんの痛苦を通して沖縄の痛苦を考えてほしい。特に本土に住む人間にとって,同じ本土側にいた大江さんの痛ましいほどの語りは十分理解可能だと思う。文体は晦渋だけども,大江さんの言葉の中に,本土で生き延びている人間としてのいやらしさや薄汚さや恥ずかしさや後ろめたさといったネガティブな情念が刻印されていることは容易に受け取れる。加害者の側に立つ自分を自覚しているからこそ,大江さんは自己嫌悪にも近い自己批判ができるのであろう。

 

 ただし大江さんの沖縄ノートは,単なる自己嫌悪,自己批判では終わらない。自己批判を通じて日本人を批判し,新たな日本人を再生しようとするのである。だが,そこに大江さんが陥ったもう一つの落とし穴があるように思える。

 

 本書では「日本人とはなにか,このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という問いが何度も繰り返されるが,これが本書の根源的なモチーフになっていることは言うまでもない。ここに言われている「日本人」とは,沖縄の人々と対比的にとらえられた本土側の人間を指していると考えられる。つまり大江さんは,沖縄人を肯定的に一元化していると同時に,日本人をも否定的に一元化してとらえてしまっている。そして,その根拠を「国民性」という単一的な原理に求めているのである。

 

 日本人とはなにか,という問いかけにおいて僕がくりかえし検討したいと考えているところの指標のひとつに,それもおそらくは中心的なものとして,日本人とは,多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないかという疑いがあることもまたいわねばならない。多様性にたいする漠然たる嫌悪の感情が,あるいはそれを排除したいという,なかばは暗闇のうちなる衝動がわれわれのうちに生きのびているあいだ,現になお天皇制が実在しているところの,この国家で,民主主義的なるものの根本的な逆転が,思いがけない方向からやすやすと達成される可能性は大きいだろう。(本書p.61)

 

 この件を読むと,私は大江さんの日本人批判の試みは失敗しているように思えてならない。沖縄人と日本人との連帯を模索しながらも,そこに国民性や民族性を導入することによって,逆に日本人という主体を自立させ,本土/沖縄の分断を強化してしまっているように思えるからだ。日本人と沖縄人を分断し,構造的な沖縄差別を作り出した根源は,国民性や民族性に収斂させるべきものではなく,近代国家の原理と運動の中に求めるべきだったのではないか。とりわけ近代国家による植民地主義の動きにもっと注目すべきではなかったかと思う。本土/沖縄,日本人/沖縄人の差別化を強調するあまり,近代国家による沖縄の日本国への同化・統合の過程が捨象され,かえって本土/沖縄の分断が固定化・絶対化されてしまったように思えるのだ。

 

 大切なのは,沖縄差別に加担する日本人に代わる新しい日本人を再生するという視点ではなく,そういう日本と沖縄の分断をつくり出した近代国家を批判し相対化する視点ではないか,と思う。問題は日本人か沖縄人かではない。近代国家による植民地主義が問われねばならないのだ。私たちに課せられている課題は,近代国家の軍事化暴力にさらされている沖縄と向き合い,自分の言葉で沖縄を語り,軍事化から解放された沖縄を想像し続けることであろう。そうした想像力と解放運動を担うにあたって,日本人であるか沖縄人であるかを問う必要はもはやない。

 

 『沖縄ノート』は沖縄の本土復帰直前に書かれたものであるが,復帰から52年がたった今日も,大江さんがとらえた沖縄の状況は何ら変わっていない。むしろ日米の国家権力による軍事的暴力は終わっていないどころか,琉球弧の軍事要塞化に向けて一層連携・強化されている。沖縄の痛みが終わらない以上,大江さんの痛みもまた終わらない。今日ほど大江さんの文学的想像力が求められているときはない…