日本赤軍とは何だったのか | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 パレスチナ君が矜持は褪せもせず歴史となりぬ我らの時代

 

という短歌を、元日本赤軍リーダーの重信房子は詠んだわけだけど(革命の季節 パレスチナの戦場からp.284)、ここで固定観念や偏見、イメージを一切排して、冷静に日本赤軍や重信房子たちの運動や闘争を振り返ってみると、その慧眼というか先見性というか、その見通しの確かさに驚かされる。すなわち、パレスチナ解放運動に連帯し、パレスチナの地に世界と日本を変革する礎を築こうという重信らの志というのは、実に歴史的・世界的課題を見据えたものだったのだなあと感心するわけである。パレスチナを結び目として世界の諸地域の現代史を考え結びつける視点を、重信らは先駆的に日本人に示した。そう総括してよいのではないか。だが、その後、日本政府による運動の弾圧や印象操作によって、パレスチナの重要性はそれほど日本社会に浸透しなかった。

 

 パレスチナ民衆の歴史というのは、植民地主義や人種主義、国家主義、イスラム差別など、現代世界にはびこる構造的暴力に抗う歴史であったと言っていい。彼ら・彼女らは、いかなる国家による庇護も受けることなく暴力に立ち向かってきた。それゆえ、パレスチナ人民は、世界の諸地域で同様の暴力に抗う人々を結びつける象徴的存在であり続けたわけである。

 

 「パレスチナを根拠地として支配と抑圧のない世界をつくる」と言うと、何だか胡散臭く聞こえるかもしれないが、その重信らの遠大な夢というかビジョンには、パレスチナの人々を、土地を奪われ故郷を失った可哀想なムスリムたちとしてだけ見るのではなく、世界の文脈において抵抗運動の結節点としてとらえる確かな視点があった。それを言論ではなく、実際のパレスチナ解放闘争への参加・連帯というラディカルな形で重信らは示したのである。「ラディカル(根源的)」であることが大きな意味を持った時代、彼女らもまた世界をラディカルに変えようとした。

 

 今、世界の注目が再びパレスチナに集まっている。イスラエルによる空爆や地上侵攻で子供を含めた多くのパレスチナ市民が虐殺され、土地や住宅、病院施設、インフラが破壊し尽くされている。あの悲惨な光景を見て、かつてパレスチナやレバノンで残虐な植民者イスラエルと闘った重信ら日本赤軍を非難できる者などいないはずだ。

 

 冒頭の短歌で「歴史となりぬ我らの時代」と重信は詠っているが、それは自分たちの時代が過去のものになったという意味ではないだろう。自分たちの闘いが歴史的な評価に堪えうるようになったことを言祝いでいるように私には思える。

 

 リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)で全身を蜂の巣のように撃たれて死んだ奥平剛士の母は、次のような言葉を遺書に書き遺したという。――

 

多くの非難の中で過ごして参りましたが、やがて歴史が解決してくれます日もまいりましょう

ジャスミンを銃口に―重信房子歌集p.123)

 

 「日本赤軍とは何だったのか」という問いも、いずれ歴史が答えてくれる日が来るだろう。だが、それは今なのかもしれない…