ナクバは終わっていない! | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 上川陽子(一応、外相)のように「ハマスによるテロ攻撃を断固非難する」とか言ってイスラエル=米国に媚びへつらう権力者連中は論外としても、私が違和感を持つのは、人道や国際法の観点からパレスチナを擁護する者たちでさえ、「ハマスによる攻撃は許すことはできないが…」という前置きを議論の最初に語ることである。若い優れたジャーナリストの安田菜津紀さんも、先日の中日新聞・夕刊の論説で、最初に「その行為(ハマスの攻撃)を決して、許容してはならない」と書いている。論説の趣旨はイスラエル建国以来の構造的暴力を批判することにあって、その点はもちろん同意するのだが、ハマスの行為は許容できない、という前提が引っかかるわけである。

 

 そういう前提で今回の戦争を語ることは、いかにもハマスの攻撃が発端になって今回の戦争が始まったかのような誤解を与える。そして、その報復として行われているイスラエルの攻撃が自衛権の範囲を超えて行き過ぎていることだけが、国際的な非難の的になっている。こういう議論の仕方が問題なのは、1948年のナクバ以来、今日に至るまでのパレスチナでの土地の収奪、家屋の破壊、住民の追放・虐殺、といったイスラエルの数々の国際法違反、暴虐の限りを尽くした行為がすべてなかったことにされてしまうからである。

 

 10月7日の攻撃というのは、決して戦争の発端でも先制攻撃でもテロでもなくて、このナクバ75年の歴史的文脈の中で起こった民族的行為と理解すべきであろう。発端は?と問うなら、それは75年前のイスラエル建国の暴力(=ナクバ)である。だから単純にハマスという組織だけを悪者扱いして片付く問題ではないのだ。イスラエル側にしてもハマスを殲滅すると言いながら、それを口実にして実はパレスチナ人の掃討を狙っていることは明らかである。75年前からやっていることは変わらない。今回の戦争は、イスラエルとハマスとの戦いなどではなくて、引き続きイスラエル対パレスチナなのである。今回の戦争を「テロとの戦い」「対テロ戦争」というアメリカ好みの図式に矮小化してはならない。歴史的文脈を見ないと、今回の戦争の意味・本質を取り違える。

 

 「今回のハマスによる攻撃は許すことはできないが…」という前提を置くことで、ナクバ75年の歴史が見えなくなる。ということは、今回の戦争の本質が見えなくなるということでもある。つまり、「民族浄化」とそれに対する民族的抵抗という対立の構図が捨象されてしまうのである。イスラエルによるパレスチナ人の虐殺・掃討は今回の戦争で初めて起こったことではない。戦争だから大量虐殺が起きているのではない。虐殺の規模は拡大しているが、本質は「民族浄化」であって、それは75年間変わっていないのである。

 

 私は、前回紹介したイラン・パペが提起したように、パレスチナ人がナクバ(大災厄)として語ってきた歴史は、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」という国際法上の犯罪にあたるとして糾弾すべきだと考えている。つまりアラビア語圏内で重い意味を持つ「ナクバ」という語りは、その重みを世界で共有するために「民族浄化」という普遍的な用語で語り継いでいくべきではないか、と。

 

パペは、民族浄化を問うことで、ホロコーストを裁く犯罪カテゴリーであるジェノサイドおよび人道に対する罪と同じベクトル上で、イスラエル建国の暴力を告発したのである。

(金城美幸「歴史認識論争の同時性を検討するために」、『現代思想』2018年5月号p.176)

現代思想 2018年5月号 特集=パレスチナーイスラエル問題 ―暴力と分断の70年―

 

 ホロコーストというナチスによるユダヤ人虐殺と、パレスチナ人のナクバを同列に語ることには、イスラエルでは当然、強い反発があるだろう。しかし、ナクバが「ジェノサイド」と「人道に反する罪」にあたること、つまり「民族浄化」という国際犯罪にあたることは、パペらニュー・ヒストリアンの実証研究で明らかになっている。イスラエル建国は民族浄化以外の何ものでもなかった。したがって、イスラエル建国の暴力=ナクバは、ホロコーストというナチス犯罪と同じベクトル上で語られるべきなのだ。これ以上、イスラエル国家によるジェノサイドや人道に反する罪を許してはいけない。

 

 であるなら、「ハマスの攻撃は許容できないが…」などという前置きは要らない。そういう前提を語る人たちは、人道に反するジェノサイドや迫害・追放をパレスチナ人は黙って受け入れろというのか。イスラエルの自衛権は許されるのに、民族浄化に対する抵抗や抗議は許されないのか。そういう理不尽な状況を思うと、怒りがこみ上げてくる。

 

 10月7日の攻撃はジェノサイド(民族大虐殺)に対する抵抗権の行使として十分に許容されうる、という前提に立てば、今回の戦争の見方も大きく変わってくるはずだ。今、パレスチナで起こっている大量殺戮は戦争中に偶々起こったこと、ではない!ナクバという民族浄化の継続なのだ。その意味でナクバはまだ終わっていない。仮に戦争が終わったとしても、民族浄化という国際犯罪はイスラエルによって続けられるだろう。だから、戦争を止めるとともに、この75年間,戦時・平時を問わず続けられてきた民族浄化を止めなければならない…