山本昭宏『戦後民主主義――現代日本を創った思想と文化』(中公新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 ここは一つ冷静になって,掲題の本を手がかりに国葬問題について考えてみよう。すなわち,本書が主題にしている「戦後民主主義」の視点から国葬をめぐる問題を考えてみたいわけである。というのも,安倍が掲げた「戦後レジームからの脱却」の「戦後レジーム」とは,「戦後民主主義」とほぼ中身が同じだからだ。「戦後民主主義からの脱却」と言えば,民主主義を否定しているように聞こえるから「レジーム」というカタカナ語で言い換えたのだろうし,また「戦後民主主義」という言葉がすでに過去のものになっていたという事情もあるだろう。とにかく,安倍は戦後民主主義に対決を挑み,これを否定し破壊しようとした。安倍の政治思想を一言でまとめるとすれば,そういうことになるだろう。

 

 岸田政権は,そういう安倍の国葬実施を民主的な手続きを取ることなく決定し,一昨日ついに強行した。つまり国会に諮ることなく,国民の税金を使う国葬の実施を決定したわけである。こういう国会無視=国民無視を前提にした内閣・官邸主導の強権政治はまさに安倍政治そのものであり,その意味で国葬問題はこの国の民主主義の存亡に関わる問題なのである。国葬に反対する国民世論は,この危機感から来ていると言ってよいだろう。そしてこれは,歴史的に「戦後民主主義」が持っていた危機感にも通じる。だから国葬問題を問うことは,戦後民主主義とは何かを問うことでもある。

 

 その意味では,一昨日の中日新聞(および東京新聞)夕刊の論説で政治学の中島岳志が,「第二次安倍政権は『戦後レジーム』を前提にして……」と述べていたことには違和感を覚えた。そのような解釈は安倍政治の本質を見誤ることになる。確かに第二次安倍政権は表向きには「戦後レジームからの脱却」を封印し,アメリカに付き従って日本の国力増強を図る現実的な路線を取ったように見えるが,しかしその背後にある真の目標は,敗戦直後の占領下にアメリカが作った,日本国憲法を頂点とする戦後民主主義=戦後レジームを打倒し,反米独立の国家を作り上げることであったと言える。そういう安倍政権の本来の性格を見落としてはいけない。安倍政治を評価する場合,中島のように本来の保守か否かという点はさほど重要ではなく,《戦後民主主義との対決》という観点が何より重要だと思う。

 

 さて,掲題の新書は,戦後民主主義をめぐる人々の言説や活動,制度改革,文化を,敗戦直後から2020年まで,擁護派・否定派ともに紹介していて,一つの読み物として大変面白かった。戦後日本は戦後民主主義を軸に揺れ動いてきたという意味で,戦後民主主義は戦後史そのものだなとも思った。というか,戦後民主主義は全体としてみれば,絶えず否定の対象とされてきた。そして安倍政権というのは,戦後民主主義の否定派最大の政治勢力であったと言えよう。安倍政権が否定・破壊しようとした戦後民主主義の構成要素は,本書によれば,ほぼ次の3点に集約される。――

 ①戦争体験と結び付いた平和主義 ②直接的な民主主義への志向 ③平等主義

の3つである。

 

 安倍政権が教育基本法改悪をはじめ,集団自衛権の行使容認や安保法制,特定秘密保護法,共謀罪,大企業・富裕層優遇のアベノミクス,生活保護削減,沖縄や原発事故被災者の切り捨て,等々の弾圧立法・棄民政策によって,これら戦後民主主義の3要素を潰しにかかったことは,今さら細かく説明するまでもないだろう。

 

 では,今回の安倍国葬は,戦後民主主義に対して何を問題提起したか。それは,特に②の直接的民主主義への志向性ではないかと私は見ている。連日,各地で国葬反対の大規模なデモが起こったことはそのことを示している。つまり直接的民主主義への志向性とは,民主主義を議会に限定するのではなく,議会外での市民の運動を重視する姿勢を指す。

 

 本書で紹介されている政治学者の松下圭一は,議会制民主主義が国民大衆の意思を十分にくみ取っていない以上,思想・表現の自由や集団行動の権利といった憲法の理念に基づく人々の直接的な抵抗運動が必要だと説いた(本書p.88)。こうした大衆市民の直接行動を求める戦後民主主義の精神は,60年安保闘争につながったし,さらには2010年代の脱原発デモや安保法制反対運動にも受け継がれていると言っていいだろう。そして今回の国葬反対デモも,国会が完全に機能不全に陥る中で,直接的民主主義を求める市民の主体的意識の表れであったと見ていいのではないか。戦後民主主義にとって最大の敵であった安倍の国葬に際しても,戦後民主主義の精神は潰えることなく生き延びていたと言っていい。そして,国民の意思を無視した,こういう強権政治を進める岸田政権は,戦後民主主義の精神と運動でもって打倒しなければならないと思うわけである。

 

 本書で筆者は,「戦後民主主義の精神が,いまほど求められている時代はない」と述べているが,私も同感である。

 

戦後民主主義は,民主主義が「統治」の手段ではなく,「参加」を通じた「自治」の手段であることを教えている。選挙以外の場での政治的意思表示から,コミュニテイや集団に関わってより良い運営を模索する粘り強い社会的実践まで,生活の至るところに民主主義があるという感覚が,戦後民主主義の根幹にある。

(山本昭宏『戦後民主主義』中公新書p.283~p.284)

 

 

 

 今回の国葬反対運動が,民主主義を支配や統治の道具として利用してきた安倍=菅=岸田の強権政治を終わらせ,市民の政治参加や自治に重きを置いた民主主義へと転換する画期になればと思う。それは戦後民主主義の一つの大事な遺産を継承することでもあるだろう。

 

 ところで,名古屋市長の河村たかしが,国葬後の記者会見で「自分の南京発言(南京大虐殺はなかったという趣旨の発言)を,安倍さんは支持してくれたんですよ」とヌケヌケと言っていた。確かに安倍は2012年,呼びかけ人筆頭となって,河村の南京発言を支持する旨の意見広告を出していた。こういう安倍の歴史修正主義的側面も大いに問題とすべきだと思うが,安倍の死後,安倍政治を論じるに当たって,あまり取り上げられていないように思う。

 

 

 

 この歴史認識問題というのは,戦後民主主義の弱点というか軽視していた問題でもあった。戦後民主主義は,戦後の日本の民主化や近代化に前のめりになるあまり,過去の日本の侵略戦争と植民地支配に対して無頓着であったことは否めない。また,戦後民主主義が普遍性を求めるがゆえに,沖縄・在日朝鮮人・被差別部落・水俣病・女性の問題など,少数者や外部の人間を排除することも厭わない集団エゴイズムを抱えていたことも認めなければならないだろう。

 

 ・・・日大全共闘の館野利治は,沖縄・在日朝鮮人・部落の人々を排除して戦後の平和と民主主義が成立してきたならばそれは卑劣であり,「戦後民主主義そのものを,私たちが壊していく過程というのが必要」だとした。

 森崎和江は,対話という言葉に代表されるように,理性を重視してきた戦後民主主義が,言葉を発しない労働者の苦悩を取り上げることはできなかったと自省した。さらに,森崎は女性の問題が戦後民主主義に欠落しているとも指摘した。

 ・・・一国の内部や多数派のなかに閉じ籠もることでまがりなりにも定着した戦後民主主義は,内部にさまざまな「欺瞞」を抱えていた。それを明確に指摘したのが,全共闘運動の思想史的意義だった。

(同書p.166~p.167)


 1945年から2020年まで戦後民主主義の思想や行動を通時的に辿った本書は、戦後民主主義を敵視しその解体と脱却を図った安倍政権を歴史的に位置づけるのに大変役に立つ。また、戦後民主主義が抱える限界や欺瞞も明らかになっている。このように戦後民主主義を検証し教訓化することで,私たちが国葬後のファシズムに対抗して何をしなければならないかも同時に見えてくるであろう…

 

「平和と民主主義」を掲げる穏健な議会制民主主義では,結局何も変わらないのだというラディカルな主張は,多くの学生たちの支持を集めた。(同書p.106)

主権在民の民主主義体制であるはずの一九六〇年代の日本が,自分たちの意思に反してベトナム戦争に加担してしまうのだとすれば,それは議会制民主主義に問題がある。・・・議会制民主主義が空洞化しているならば,それ以外の方策で自分たちの主張を現実化せねばならない――。(同書p.160)

・・・議会=民主主義のイメージに安易にもたれかかってピラミッドをつくり上げて来た民主主義への告発・・・自分たちがめざす民主主義がデモ行進=民主主義の民主主義であることを明瞭に示している・・・(同書p.161)