まあ,上の番組も前回紹介した「報道1930」と似たような趣旨だったのだが,一つ今回のウクライナ戦争を理解するうえでポイントとなる概念が出てきたので,上に載せておいた。それは「ルースキー・ミール(Russki mir)」という言葉で,日本語に訳せば「ロシアの世界」とか「ロシアの平和」となるのだが,プーチン大統領とキリル総主教が共有する世界観で,今回のウクライナ戦争を根底で支えるイデオロギーと言ってよい。それは,下のロイター記事によれば,「旧ソ連領の一部だった地域を対象とする領土拡張と精神的な連帯を結びつける構想」と定義される。
それは,もうちょっと敷衍して言えば,プーチンが思想信条としている新ユーラシア主義とか大ロシア主義,汎スラブ主義といった伝統的な拡張主義と,ロシア正教とががっちり手を組んだ保守主義思想ということになるだろう。この「ルースキー・ミール」を掲げて,2012年プーチンは大統領に返り咲いた。つまりプーチンは,ソ連時代とは逆に,宗教を積極的に利用し,それと結託することで自らの拡張主義イデオロギーを強化し,盤石なものにした。
この「ルースキー・ミール」構想を修正するなり撤回するなりしない限り,プーチンはこの戦争をやめることはない。というより,ロシア正教という宗教がバックボーンにある限り,すぐにこの構想が崩れるとは考えにくい。何らかの政変が起きてプーチンが失脚することでもない限り,この「ルースキー・ミール」は生き続け,ウクライナ戦争をイデオロギー的に支え続けるだろう。よって,この戦争は終わりなき宗教戦争の様相を呈し,泥沼化していくしかないのではないか。
あるいは,バチカンのフランシスコ教皇とロシア正教会のキリル総主教が会って話し合うようなことでもあれば,また事態も変わるかもしれない。だが,それも可能性は低いようだ。両者は2016年にキューバで会談し,カトリックと正教会とのまさに歴史的和解が実現したわけだが,その後,再び関係が悪化し,今回のウクライナ侵攻で完全に敵対的になったとされる。
バチカンとロシア正教会との関係を決定的に悪化させたのは,バイデン大統領の誕生であろう。カトリック教徒であり,フランシスコ教皇と近い関係にあるバイデンがアメリカ大統領となったことで,キリル=プーチン(ルースキー・ミール体制)はフランシスコ=バイデン(カトリック民主主義体制)を完全に敵とみなすようになった。今回ウクライナは,再びカトリックとロシア正教会がぶつかり合う場となり,したがってこの戦争は宗教戦争的な意味合いを強くする。
上の番組にも出ていた松本佐保さんは,『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』(ちくま新書)という本の中で,バイデンとフランシスコ教皇との深い関わりを指摘している。
バイデン家はカトリック信者だがカトリック保守ではなく,ケネディ家以来の民主党のリベラルなカトリックの系譜であり,現教皇フランシスコと近い関係にある。
(中略)
バイデンは,カトリック信者であり現教皇フランシスコと近い立場であることを,大統領選挙の公約でも明言していた。
(松本佐保『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』ちくま新書p.189~p.190)
松本さんは本書において,アメリカでエバンジェリカルズ(福音派)が白人ナショナリズムと結びついて「政治化」したことがトランプ現象を生んだ,と説いていたが,似たようなことが2000年代以降のロシアでも起こっていたわけである。すなわちロシア正教会が軍やプーチン政権と結びついて,世俗的・政治的影響力を強めていった。私たちはトランプ現象とか反知性主義とかと言ってアメリカの宗教勢力ばかりに目を向けていたわけだが,ロシアでも宗教の政治化が急速に進んでいたのである。
前回記事でも指摘したように,ロシアに特徴的なのは宗教が軍と密接に結びついている点である。そのため宗教が軍事侵攻=戦争を支持し,さらには核兵器を祝福するといった前代未聞のことが起こっている。つまり宗教と,ミリタリズムや拡張主義とが強く結びついて,「ルースキー・ミール」なるイデオロギーを生み出した,と言っていい。松本さんはアメリカの動きを《宗教ナショナリズム》としてとらえたが,私はこの「ルースキー・ミール」に表象されるロシアの動きを,とりあえず《宗教帝国主義》と呼ぶことにする。すなわち,「政・軍・教」が三位一体となって旧ソ連領までの領土拡張を追求していく体制が宗教帝国主義にほかならない。
さて,戦争を煽るロシア正教会の変質というか堕落に関して,元KGBの工作員だったというキリル総主教,個人に問題があることはもちろんだが,これをすべて個人の資質の問題に解消するわけにはいかないだろう。東方正教会から,さらにはロシア正教会内部からも,キリル総主教の軍事への前のめりな姿勢に対して批判的な声は出ているようだが,キリルはまだ戦争支持の姿勢を変えていない。そういう意味で今回の戦争には宗教も大きな責任がある。本来,平和を祈るべき存在である宗教が,キリスト教だけでなくイスラム教やユダヤ教なども連帯して,キリルに戦争支持を撤回させ,ロシアの軍事侵略を直ちにやめさせるべきだろう。松本さんも上の番組最後に示唆していたが,イスラム教のトルコやユダヤ教のイスラエルなどもロシアに対して,和平に向けた積極的な働きかけをしてほしいと思う。
気になるのは,5月9日の対独戦勝記念日だ。ロシア政府は一方的な「勝利宣言」をするのか,さらなる戦闘の拡大=「戦争」昇格を宣言するのか,よくわからないが,いずれにしても今回の軍事侵攻を愛国心の発露として美化するイベントをやるのだろう。「宗教帝国主義」という21世紀の怪物がロシアを揺るがしている。20世紀最初の年に「帝国主義」を「二十世紀の怪物」として論じた幸徳秋水は,帝国主義の行く末が「最闇黒の地獄」だと喝破したが,その見立ては適確だった。21世紀の怪物「ルースキー・ミール」を退治しないで,このまま放置しておけば同じようなことになるのだろう・・・
もしも,そうでなくて,ながく今日の趨勢のままに放任して,反省しなければ,・・・われわれの前途は,ただ最闇黒の地獄が待っているにすぎない。