信田さよ子『家族と国家は共謀する』(角川新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 家族団らんの場という平和的なイメージのある家庭とは実際は戦場なんだな,と標記の新書を読んで思った。だとすると,新たに設置されようとしている「こども家庭庁」とは,子どもを戦場に送り込むための総力戦体制的な国家機関と位置づけることができよう。家族に対する認識が一面的で,しかも古臭いから,子どもと家庭を不可分なものとして結びつけようという危険な発想になるのだろう。

 

 多くの人に掲題の本を読んでもらって,家族とは何なのかをよく考え直してほしいと思う。つまり,「家族とは愛情で結ばれた共同体」といった固定観念,思い込みが日本の社会にはびこっているが,本当にそうか。そういった常識的な家族観によって苦しめられ傷つけられている人がいないのかどうか,よく検討する必要がある。

 

 家族とは,国家と相似形の政治集団であり暴力的存在だと説く本書は,これまでのステレオタイプの家族像をひっくり返すインパクトがあり,時宜を得た好著と言える。筆者の信田さよ子さんは臨床心理士だが,DVや虐待などの被害者から相談を受ける中で,家族と国家を串刺しにする視点を獲得する。こういう視点や発想は,政治学や社会学の専門家からはなかなか出てこないだろう。本書は,家族論に政治の観点を導入した画期的な著作であり,私たちの家族観を更新する上でも意味のある一冊だ。

 

 さて,筆者はカウンセラーとして,家族の構造改革を試みる。すなわち,これまで家族の関係(夫婦関係や親子関係など)は,しばしば「愛情や育み,思いやり,やさしさ,温かさ」とともに語られてきたが,筆者はそういったドミナントな物語を一切消去する。代わって,「支配,力,被害,加害,戦略,駆け引き,作戦」といった政治的な言語でもって,家族の関係性を土台からつくり変えようとする。

 

いわば,心理学から政治学へのパラダイム転換である。家族はこのようにして政治的(ポリティカル)に解釈されることで,変革の可能性,起動点が見えてくると思う。

(信田さよ子『家族と国家は共謀する』角川新書p.138)

 

 

 ごく私的で心理的な関係と思われてきた家族とは,実は政治だったのだ!このパラダイムシフトこそ,本書の醍醐味と言えよう。それまでの心理学の用語や概念ではどうにもならない家族の現実が,筆者にパラシフをもたらした。このパラシフによってはじめて,家族の暴力が国家の暴力とつながっていると認識することができたのである。権力とかレジスタンスといった政治的な言語を用いることなく,家族を理解することはもはや不可能と言っていい。

 

 かつて政治学者の丸山眞男は,社会の隅々にまで暴力やいじめがはびこる日本独自の構造を「抑圧委譲」という用語によって説き明かしたが,筆者の信田さんは,この言葉ほど日本の家族の特徴を端的に表すものはないと言っている。丸山は日本軍内部の支配構造を分析する中で,暴力が強い者から弱い者へ,中央から周辺へと委譲・連鎖していく構造を「日本的なもの」としてとらえた。信田さんは,その日本的な「抑圧委譲」の構造を,現代の家族の中に読み取ったわけである。

 

 常識的な家族観では,家族というのは暴力とは無縁の愛情共同体だ。家庭内暴力(DVや虐待)が起きる家族は異常とみなされ,一般の家族とは切断される。普通の家族の中に「暴力」は最初から存在せず,したがって加害・被害の関係性も存在しないとされる。

 

 「暴力」を他人からの望まぬ侵入と定義することで,家庭内でも加害者と被害者という相反・対立関係が生まれる。家庭内暴力の多くは習慣的に繰り返され,加害者・被害者の関係は相互的ではなく,非対称的である。この非対称性は権力とも言い換えることができよう。それは強い者から弱い者へと行使され,抑圧委譲の基礎を形成する。

 

兄と妹,夫と妻,親と子の関係が非対称的であれば,一方が合意と思っていても,もう一方は強制,もしくは反発不能と感じるかもしれない。家族という空間では,他者に対して無防備であることが推奨され,それは容易に力による侵入を生む。権力を持つ側の恣意性,自由放任度は,時としてむき出しの権力の発露につながってしまう。

(同書p.52)

 

 家族に権力の視点を導入することで,それまで見えなかったもの=暴力が可視化される。注意すべきは,権力による力関係が決して固定化されたものではなく,流動的で容易に転換可能だという点である。例えば,DVの被害者である妻が子どもに対しては権力によって虐待の加害者へと容易に転換したり,虐待を受けていた子どもが大人になってDVの加害者になるなど,暴力は家族内で弱い者,弱い者へと向けられていく。こうした家族内での暴力の連鎖は,まさに丸山眞男や野間宏が日本軍の体質として描き出した「抑圧移譲」にほかならない。

 

 国家機関である軍隊と私的な領域である家族という,二極における暴力は,動的でポリティカルな視点によってはじめて連続したものとしてとらえられる。筆者がこうした視点を持ち得たのは,戦時中に軍内部のリンチなどで心を病み,日本に送還された兵士に関する調査報告書(『戦争とトラウマ』)を読んだのがきっかけだったようだ。

 

国家の暴力(戦争)と家族における暴力(DVや虐待)の被害は深いところでつながっているのではないか,という思いを私は私は持っていたが,この本を読んでそれは確信に近いものとなった。

(同書p.210)

 

 その調査報告書には,戦争トラウマで精神を病んだ兵士の多くが,敵国との戦闘そのものよりも,軍内部での上官からの苛烈ないじめ・リンチ・暴行によって精神を破壊されていったことが記されていた。しかし,こうした兵士たちの存在は国によって隠された。「死をも恐れぬ」という勇ましい軍国主義イデオロギーに反したからだ。彼らの存在は恥ずべきものとされたのだ。

 

 入院していた彼らは,激しい戦争神経症の症状(ヒステリー)に悩まされるが,軽快すると今度は生きていることを責め,時に自殺を図る。どこにも,どちらを向いても彼らが居られる場所はない。戦後,家族も本人を受け入れる人は少なく,多くの人が精神病院に入ったまま人生を終えることになる。・・・無事,家族に帰還した人たちも,多くは家族(妻や子)に対して苛烈な暴力をふるった。・・・

  (中略)

 衝撃的だったのは,敗戦と同時にカルテをすべて廃棄するように国から命じられたという事実である。

(同書p.211~p.212)

 

 彼ら兵士は,自分が軍隊内で受けた抑圧を,家庭内でさらに弱い者に向けたのだ。ここに戦争と家族が抑圧委譲によって直接つながる。だが,国は戦争神経症の兵士の存在を否定し,また戦争協力者であった精神科医も戦後,沈黙を守った。

 

 このように戦争神経症を何重にも否定する構造は,性虐待も同じだと筆者は指摘する。性虐待の加害者である父が「あってはならない行為」をしているのに,さまざまな方面から被害者は存在しないとされる。性虐待被害を容認すれば,愛情や絆で固く結ばれた家族というイデオロギーが崩壊してしまうからだ。それは,戦争トラウマの兵士を容認すれば,皇軍兵は死も厭わず戦い抜くという日本軍神話が崩壊するのと同じ構造である。

 

こうして国家を支える軍隊のイデオロギーを守るために国家を支える家族のイデオロギーを守るために,戦争神経症も性虐待もないものとされなければならないのである。

(同書p.219)

 

 最も私的で最も見えにくい家庭で起こっている暴力は,実は国家レベルの暴力と連動しているのだ。第一次安倍内閣が「家族の日」を定めたり,現在の岸田政権が「子ども家庭庁」なるものを設置したりするのは,家族の暴力を(したがって国家の暴力を)隠蔽しようという国の意図が働いているのではないか。そう思わざるを得ない。

 

家族は国からも他者からも侵入されないユートピアなどではなく,もっとも明確に国家の意思の働く世界であり,もっとも力関係の顕在化する政治的世界なのかもしれない。

(同書p.221)

 

 家族がこのように権力関係が剥き出しになる政治的世界だからこそ,一人一人の日常の小さな「レジスタンス」が大切だと筆者は説く。日本語では「抵抗」と訳されるレジスタンスだが,この言葉で最初に想起されるのは,第二次世界大戦中,ドイツ占領下のフランスで展開されたレジスタンス運動であろう。筆者は。この言葉を家族に対しても積極的に使おうと提唱する。

 

 PTSDやトラウマという言葉が日本で広まったのは1995年の阪神・淡路大震災以後だが,これらの言葉によって,それまでは埋もれて忘れられるしかなかった経験が,はじめて他者に伝達可能なのものとなり,「被害」として認知されるようになった。そうすると,被害者とはどう人たちなのかが見えてくる。すなわち,被害者とは,日々その家庭環境の中で生きていくために「抵抗(レジスタンス)」を行っている人たちなのだ。「被害者=レジスタンス」,そのように被害者に対する認識を改めるべきだと筆者は主張する。

 

 最も露骨に力関係が表れる家族という政治空間の中で,暴力被害者はなんとかして日々を生き延びようとするし,男女は平等であろうと努力する。こうした一人一人の日常の小さな行動が「レジスタンシス」なのだ。そう結論する本書に,私は深く納得し共感した。本当に「目から鱗」の一冊だ。

 

 抑圧委譲で至る所に暴力やいじめ,ハラスメントがはびこる日本は,ちょっとしたきっかけで,国家の暴力である戦争に突き進んでいくような気がしてならない。国家の暴力と家族の暴力が根底でつながっているとするなら,筆者の言う家庭内での小さなレジスタンスは,国家暴力=戦争を抑止するための運動や政治体制を作り上げていくのに大きな役割を果たすのではないか,と思う。レジスタンスによる家族の解放は,国家の暴力からの解放でもあるのだ…

 

 

※嫌がっている相手にしつこく付きまとうのはやめましょう!