「米国の20年戦争」 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 先日まで中日新聞で4回にわたって連載された「米国の20年戦争」という特集記事は,実に良かった。というのも,「テロとの戦い」とは何だったのかを考える上で非常に示唆に富む記事だったからである。この連載記事では,アフガニスタン戦争に従軍した元米兵やその家族の声を主に伝えている。

 

 記事で紹介されていた従軍兵士2人は,十代のときに9.11が起こり,大きなショックを受けた。そして,アルカイダとその指導者ビンラディンへの復讐を誓い,その復讐心を支えに軍隊に入りアフガンに従軍した。また2人はイラク戦争にも従軍した。いずれの戦争も正義の戦争と信じて疑わなかったという。

 

 だが,彼らの「復讐心」が「絶望」に変わるのには,それほど時間はかからなかった。米国が銃口を突きつけたその先で民主国家を建設するなど思い上がりにすぎなかったのだ。

 

若い兵士が戦死しても,家族向けの動画で上官として語るべき言葉が出ない。「絶望的な国家建設の任務で死んだ」とはさすがに言えなかったが,では何のために死んだのか。ダニー自身もわからなくなり,かつて抱いた復讐心は絶望に変わり,同時に反戦への思いが強まっていった。・・・

 

 こういう元兵士たちの証言を読んで思ったのは,国家とか愛国心を前提にした復讐心や憎しみといった感情がいかに脆く虚しいものか,ということである。「テロとの戦い」は「民主国家の建設」という国家大義にすり替えられ,純粋な若者たちの正義感や愛国心を刺激して戦場へと駆り立てた。だが若い兵士たちはアフガニスタンの現場で,そういう新国家の建設という大義が米国の思い上がりに基づくまったくの妄想であることを思い知る。アフガン政府軍は腐敗し地元住民の信用を得られないまま,戦況は泥沼化した。米国はベトナム戦争と同じ轍を踏んだ。

 

 そもそも,米国という国家が他国に乗り込んで,新たな国家を建設しようという考えが根本的に間違っていたわけで,なぜそういう過ちに陥ったのかと言えば,いつまでたっても国家という幻想に取り憑かれて,そこから逃れられないからだ。つまり国家という枠組みの中でしか考えることができなかった。政策立案も外交・軍事行動もすべて国家依存的というか国家完結型であった。

 

 「テロとの戦い」がもたらした思想的な影響で最も大きな地殻変動だったと私が思うのは,国家ではないテロ組織やテロリストまでもが疑似国家的な存在に格上げされてしまったことである。米国が「テロとの戦い」を掲げたのも,テロに対する国家の優位・勝利に自信があったからだが,しかし「テロ」とか「テロ戦争」いう言葉が世界中に蔓延し浸透することで,逆にテロ組織は勢力を強めていった。例えば,その最も顕著な事例がISだろう。ISは国家樹立を宣言するなど国家的な体裁をとり,武力を誇示しながら,米国をはじめとする正規の国家と対峙し,その存立を脅かすほどの強力な存在になった。国家優位の幻想は打ち砕かれた。それがまた米国の「テロ戦争」を継続する根拠ともなり,国家暴力とテロ攻撃の報復合戦という悪循環を招いた。

 

 米国バイデン大統領は,他国で民主主義国家を建設するという試みが間違った幻想であり,もはや国家暴力=軍事力では何も解決しないということを悟ったのだろう。だからアフガン駐留米軍の全面撤退という重い決断をした。バイデンは「他国を立て直す軍事作戦の時代は終わった」と宣言した。私はこうしたバイデンの決断を支持する。確かに撤退の仕方や住民退避などに問題があったし,バイデンの支持率も当面は低迷するだろうが,とはいえ今回の撤退は,歴史大局的には意義ある決断として,後に評価されるのではないかと思う。

 

 「テロとの戦い」を口実に始めたアフガン軍事介入は米国史上最長の20年続き,多大な犠牲を出した末に「失敗」=「敗北」に終わった。バイデンの決断と宣言は,米国が軍事力でもって他国に民主主義を植え付けることがもはや不可能であることを米国自身が認めたことを示している。今後,米国は国際社会において軍事力を盾にした露骨な介入主義をとることには後ろ向きになるだろうが,その一方で,各地で米国,中国,ロシアなどの覇権抗争が激化することが予想される。それには当然,軍備拡張が伴う。

 

 連載記事のインタビューで元兵士が,米中対立の最前線に立たされる日本に対して語った次のような忠告が印象に残る。米国の戦争に従軍した米国人兵士が言った言葉だけに余計に重い。

「冒険(=戦争)」に誘われたときに米国人として言いたいのは「われわれを信用するな」ということだ

 

 米国の軍事力に頼っても何も解決しないし,中国との戦闘や戦争に巻き込まれ犠牲になるのは,その前線に立つ名もなき兵士であり何の悪意もない市民や島民だ。「われわれ(=米国)を信用するな」とはそういった趣旨なのだろう。

 

 さらに私がこの言葉からくみ取ったのは,もはや大国に依存し期待する時代は終わったという認識である。大国に頼っても平和を実現できないことは,世界各地の民衆は気づき始めている。中東でも国家に物言う個人が出てきている。さらに,難民・移民問題にせよ気候変動にせよパンデミックにせよ,いまや領域国家を超えた協力が必要な課題に私たちは直面している。これから私たちは,軍事など国家の枠組みによらずに人々の命や生活を守る国際システムの構築を目指していくしかないのではないか――。それこそ幻想だと言われるかもしれないが,だが確かに言えるのは,「テロとの戦い」の失敗・敗北は国家優位の時代に終わりを告げた,ということである…