斎藤貴男『安心のファシズム』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 小池都知事や安倍首相の記者会見を聞いていると,都民,国民一人一人の「自粛」「努力」が足りないから緊急事態宣言を延長せざるを得なくなったみたいな話になっていて,すごい責任転嫁というか自己責任論だなと思ったのだが,そもそも改正インフル等特措法が「自粛」を要請することしかできない代わりに補償も罰則もない,自己責任ベースの改正法であったということは,ここでしっかりと確認しておきたい。つまり特措法は,感染が拡大してしまった場合,責任を国民や住民に押しつけるための法的基盤になっているのだ。そういう法律を確信犯的に官僚や政治家が作ったわけである。

 

 前回書いたように,天皇制=国体を護持してきた日本では独裁者が恣意的に強力な権力を振るうという形の全体主義は生まれにくい。そうではなくて,日本に特有なのは,すべての人間や組織が互いを監視し,牽制し合うという形の全体主義であり,それを丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。自らの行動を律する倫理・規範が個人に内面化されていないから,上(天皇,国家権力)からの正当化・承認を常に求めてしまう。上から認められれば,それは自分の責任ではない。しかし,上からのプレッシャーは,自分の下への圧力となり,社会の末端や周縁・外部に責任をなすりつけることになる。こうして,独裁ではなく,「抑圧移譲」という形で全体主義が形成されていく。

 

 今の「自粛警察」的な人々の行動や心理は,まさに抑圧移譲としての全体主義の表れと見ていいだろう。緊急事態宣言を解除できないのは国民一人一人の責任だとされたことで,国民や住民の間での監視・抑圧がますます強まり,人々の内面はますます権力と一体化していくとともに,抑圧を下へ下へと移譲していく。人々はこうやって精神の安定,安心を保っていくわけである。

 

 掲題の書物は,ファシズムに安心を求める大衆の心性や論理を解き明かしていて,コロナ・パニックの現状をとらえる上でも大変参考になる見方や事例が示されている。本書は,日本国内でいわゆる「自己責任」問題が沸騰したイラク人質事件を受けて,書かれたものである。2004年のことだから,もう記憶が薄れているかもしれないが,あの事件は,「自己責任」という言葉や考えが社会に一気に広まる大きな転換点になった事件と言えよう。イラクで日本人民間人が武装組織によって拉致・拘束され,自衛隊の撤退を要求された事件。日本政府は自衛隊撤退を断固拒否し,ゲリラと人質の自作自演説まで流し,最終的には人質たちの「自己責任」「自業自得」と決めつけた。政府は,人質が殺されてしまった場合に自衛隊撤退の世論が高まることを何より恐れていた。だから人質たちの「自己責任」をやたらに強調した。その流れの中でメディアやネットなどでの人質バッシングも熾烈を極めた。

 

 この2004年の人質バッシングを「この国の時代相がある方向を明白に志向しつつあることを明確に表した光景」(本書p.2)と評した筆者は,先見の明があったと言えよう。イラク人質事件をめぐって示された「自己責任」の潮流は,決して一過性のものではなく,今やこの国全体を覆う空気のようなものになってしまったわけだから。

 

今回の人質たちは政府とは異なる価値観を持つ民間人ばかりであり,しかも本人も家族も周囲も,ことごとく派兵反対の立場に立っていた。日本国民の大多数を占めるサイレント・マジョリティが万が一にも彼らに共感するようなことがないように,政府やその周辺は,人質やその家族たちをどこまでも貶めておく必要があった。

 (中略)

多様な価値観を許容する寛容さが急速に失われつつある今日の日本社会。「自己責任」という言葉が,そして,時代の気分にぴたりとはまった。

 (本書p.17)

 

 

 「自己責任」は「非国民」と読み替えることもできる,との筆者の指摘はおそらく正しい。2004年に人質バッシングをしていた連中も,今「自粛警察」をやっている連中も,確かに本音はそういうことなのかもしれない。筆者は,自己責任論の台頭・氾濫の背後に,超国家主義の復権を冷静に見ている。

 

 問題は,村田,上坂,石原,西村各氏のような発想,すなわち国家,政府という存在を最高の価値として捉えると同時に,権力を持たない個人は国家に貢献,,奉仕するためだけの道具,従属物であるに過ぎないと見なして,・・・多様な価値観を認めない考え方が,彼ら古いタイプの保守主義者だけではなく,戦後生まれの若い世代や,少なくとも右派でないと目されているマスメディアにまで広がっている点である。

 (本書p.35) 

多数派が日本政府に対する信頼を高めていく間に,人質家族たちはどん底の不安と戦いながら,どんどん萎縮していった。北海道東京事務所を拠点とした定期的に記者会見を開いていた彼らは,日を追うごとに低姿勢になり,解放前後には,ほとんど頭を下げてばかりいるようになった。(本書p.38~p.39)

 

 こうさせたのは一般の人々,権力と一体化した国民の多数派なのである。緊急事態宣言下にある現在は,このような人質バッシングが全社会的に拡大した状態と言えまいか。エビデンスも基礎データもはっきりしない緊急事態宣言を出した政府の方針に盲従して,「自粛」を相互監視しするような「自粛警察」的な行動を知ると,そう思わざるを得ない。

 

 休業要請対象外の店さえも営業していればバッシングされ,感染者も軽率などと批判され差別される。少数派がどんどん萎縮していく構図は,人質事件当時と同じだ。今や緊急事態宣言に異を唱えたり経済活動再開を言ったりする空気は消えてしまっている。むしろ国家主義の強化や憲法への緊急事態条項追加を求める世論が多数になろうとしている。権力に制限をかける立憲主義を捨て,自らの首を自らの手で絞めようとしている。このようなファシズム的状況をつくり出したのは,大衆の側である。政府権力やそれに諂うマスメディアだけが,冷酷非情であったわけではないのである。

 

 二〇〇四年四月,この国を覆い尽くしていたのは,”非国民”の存在を許さない,六十年前と同じ”銃後”の空気ではなかったか。

 『朝日新聞』の四月二十二日付朝刊「朝日川柳」欄(大伴閑人選)に,そして,こんな句が載った。

 

 イラクより母国の方が怖かった(藤枝市 河合文路)

 

 (本書p.39)

 

 今の状況で作句するとしたら,

 ウイルスより日本人の方が怖かった

となるだろうか。

 

 独裁者の強権だけではファシズムは成立しない,という点が本書の一番言いたいポイントであろう。服従を積極的に求める大衆の心性があってこそ,ファシズムはその命脈を保つのだ,と。不安や怯え,恐怖,贖罪意識,等々の大衆心理は(その大部分が権力によって巧みに誘導されたものではあるが),携帯電話や自動改札口,住基ネット,監視カメラ等の巨大テクノロジーと利便性に支配される安心感を欲し,結果としてファシズムの形成に加担する。今の状況にあてはめてみれば,「自粛」心理がファシズムを推進しているということであろう。

 

 本書は,やや安易に「ファシズム」という概念に寄っかかっているきらいはあるが,時代が危険な方向に進んでいることを示す一つの要素として,この「ファシズム」的状況があることは間違いないだろう。それをジャーナリスト的な直観と豊富な取材量によって明らかにしている本書は,15年前に書かれたものとは思えないほどのリアリティがある。ウイルス禍においては,リモートワークとかオンライン授業などの便利なテクノロジーとその背後にある権力に支配される安心感がますます強まっていくだろう。本書の「あとがき」に「ファシズムは,そよ風とともにやってくる」という常套句が忘れられてはならない警句として紹介されているが,

ファシズムは,ウイルスとともにやってくる

という表現も忘れてはいけない警句として新たに胸に刻むべきであろう。。