桜井哲夫『〈自己責任〉とは何か』(講談社現代新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 小池都知事は記者会見で「感染拡大を防げるかどうかは,都民の行動にかかっています。あなたの行動にかかっている。誰かがやるんじゃなく,自分なんです」と毎回もっともらしいことを言っているけれども,これは狡猾な為政者による悪質な責任転嫁だと言うほかない。もし感染が拡大すれば,都からの強い要請にもかかわらず都民がちゃんと行動を自粛しなかったからだと,全部責任を都民になすりつける論理になっている。直接責任のない人たちに対して連帯責任を負わせるのは,自らの失政の責任をごまかす権力者の常套手段である。そして,いつも決まって痛い目に遭うのは弱者なのである。

 

 責任のないところに責任を発生させるマジック・ワードが「自己責任」なのだ。コロナ禍の中で毎日のようになされる,あのような小池の発言は,自己責任の名のもとに進められてきた弱者切り捨て政策を正当化し,権力のお墨付きを与えるものであり,到底許せるものではない。

 

 ところで,掲題の本によると,「自己責任」なる言葉が,「妖怪」のように日本社会をさまよい,はやり出したのは,1990年代後半のようだ。例えば,リスクのある金融商品に投資する人たちに対して「自己責任が求められる」といった使われ方をした。97年に山一証券が廃業した際にも,当社のヒラの社員が「この会社を選んだ自分にも自己責任がある」と語ったというエピソードが,本書の冒頭で紹介されていた。愚かな経営トップの誤った判断によって潰れた企業に対して,一ヒラ社員が自分も悪いと考えるのは,敗戦時の「一億総懺悔」にも似た転倒した思考ではないか。

 

 当初は経済用語にとどまっていた「自己責任」が,新自由主義政策・規制緩和を進めたい政治家や官僚によって政治的・社会的な言葉へとすり替えられ,弱い立場や貧しい人たちを叩く道具として使われるようになった。すなわち,貧困や格差に苦しんでいる人は「努力が足りないだけだ」と。

 

 20年以上前に出た本だが,この国を蝕む自己責任という病理を,いち早く明らかにしたという点では好著であり,今読んでも十分読むに堪える内容である。ということは,つまり日本という国が未だに「自己責任」という無間地獄から抜け出せていないことを意味しているだろう。というか,ますますその深みにはまり込んでいることが,本書を読むとはっきりわかるわけである。とりわけ現在のような感染症パニックの事態においては,この自己責任という強毒ウイルスは社会の隅々にまで強力な作用をもって蔓延していると言える。

 

 十分な補償もなく,「あなたの行動にかかっているんだ」と理不尽に責任を押しつけられているにもかかわらず,自らすすんで自由を制限し,おとなしく自粛している日本人の行動様式は,どう見ても異常である。しかも,人々がちゃんと自粛しているかどうかを相互監視し,権力に密告することが公共善で,国民の責務であるかのような認識が共有されている今の状況は,権力の分散化というか,ミニ権力の跳梁跋扈状態として極めて危険だと言わざるを得ない。言うまでもなく,それは戦時中の隣組や関東大震災時の自警団の再来を思わせるものだ。

 

 掲題の本では,やや批判的に丸山眞男の「無責任の体系」論が紹介されているのだが,まさに今の日本の状況は,丸山が指摘した「無責任の体系」や「抑圧移譲の原理」によって理解できるものだろう。ヒトラーのような独裁者が強力な権力をもって独裁を敷かなくとも,国民や組織が自らミニ権力になって全体主義をつくり出しているのである。

「天皇からの距離」が権威づけの根拠にあるような社会では,独裁者が恣意的に権力をふるうという図式は生まれない。すべての人間や組織が互いを拘束し,牽制しあうという形となっているからだ。だから,誰か一人が独裁的な権力をふるっているとか,どこかの組織が権力をふるっているという意識は生まれなかった。(本書p.65)

自らの良心によって行動するのではなく,あくまでも上級者(天皇により近い者)の存在によって行動が規定されているから,独裁ではなく,「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」とでもいうべき現象が生まれる。上からの圧力を下の者へ威張り散らすことで解消しようという衝動である。(本書p.66)

官庁汚職などで,ノンキャリアの課長補佐などが自殺して汚職捜査の幕が引かれるなどというのは,この抑圧移譲による下への責任転嫁(弱い者イジメ)の最たるものだったでしょう。「お国のために」という決まり文句で末端に責任をなすりつける操作は,ある意味で明治以来のこの国の官僚機構の特徴的なやり口だと言えるかもしれません。(本書p.169~p.170)

 

 

  掲題の本は,丸山眞男だけでなく古今東西の学説・思想を総動員して,自己責任というこの国の病根を鋭く洞察している。家族の再評価など日本の文化・伝統にやや甘い見方があって,全部が全部同意できるわけではないけれども,権力を持たない人々(特に弱者)に責任や負担を押しつけようとする企みへの,筆者の抗議や義憤には迷わず同意できる。

 

 本書の観点から見ても,国のため,国民の命を守るためだとして,責任を住民や市民になすりつけ,権力者の責任をなかったことにする小池流の自己責任論には絶対に騙されてはいけない。「自粛要請」にせよ「自粛警察」にせよ,これらは「自己責任」という病原性ウイルスに感染してしまった人々の病的な状態だと言わざるを得ない。こういう政治的・人為的なウイルスとは,共生はもちろん,共存すらしてはならないだろう。この自己責任ウイルスは小池都政や安倍政権共々,直ちに退治・撲滅してしまわないと,自己責任全体主義とでもいうべき大変危険な世の中になってしまうのではないか。現在のコロナ・パニック,リモートワークとか学校9月入学といった瑣末なオポチュニズムに陥るのではなく,全体主義的な自己責任社会から脱却するチャンスにしなければならない。。