渡辺靖『リバタリアニズム――アメリカを揺るがす自由至上主義――』(中公新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 「リバタリアン」と聞くと,「政府は口を出さずに市場に任せておけば何でも上手くいく」と信じて疑わないフリードマンのような極悪な市場原理主義者を思い浮かべてしまって,具合が悪くなるのだが,掲題の本を読むと,リバタリアニズムと言っても,かなり幅があるというか,意外なほど多面的であることに驚かされるとともに,大変勉強になった。

 本書の著者・渡辺靖さんは,1年間のサバティカル休暇中に,アメリカ各地に数多く存在するリバタリアン系の団体やシンクタンクなどを訪ねてインタビューを重ね,その現地調査に基づいてリバタリアニズムのさまざまな考え方や活動を本書で紹介している。

 冒頭では,ニューハンプシャー州にリバタリアンが集まって居住しようという運動が紹介されている。移住と言っても,ロバート・オーウェンが構想したようなユートピア共同体を作ろうというのではなく,「国家と村落の中間,すなわち”小さな”州」といった規模でリバタリアンが集まり,ニューハンプシャー州の政府の役割を最小化する(州民の生命・自由・財産に留める)ことが目的らしい。本書ではこれ以外にも,洋上(南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチ島沖合)にリバタリアンが住む人工浮島を作ろうとか(「シーステッド構想」),東欧を流れる河の中州にリバタリアンのコミュニティを作ろうとかいう試みが紹介されていて,アメリカのリバタリアンたちのバイタリティーや思い切りの良さに恐れ入った。これは,リバタリアニズムという思想の魅力から来るものなのか,それとも自由を求めるアメリカの伝統と言った方がよいか。道徳教育から元号使用まで,何でも政府の言いなりになっている今の日本からすると,信じられない話の連続である。リバタリアニズムという思想内容の評価は別にして,本書は「自由の国」アメリカの真髄を知る上で実に興味深い話が詰まっている。

 さて,本書を読むと,少なくともリバタリアニズムが今,若い世代を中心にアメリカの人々の心を確実にとらえ,影響力を拡大していることがわかる。ただし,「リバタリアニズム」と言っても,とらえどころがないというか,先ほども書いたように著しく多面的であるため,なかなか統一的な定義が難しい。あえてその共通した特徴を一言で言うなら,政府の存在そのものへの拒否感,あるいは国家権力への限りない懐疑,といった感じか。ざっくり言えば,公権力を極力制限し,個人の自由を極大化しようという立場だ。

 リバタリアンに共通するのは,政府こそ「リヴァイアサン」的な発想の権化であり,もっと「ペンギン」(註:自発的に協力する存在)としての個人の良心や創造力を信じるべきだという視点である。それは個人の権利と自生的な秩序を尊重し,政府の役割はあくまで自由を守るためだけの限定的なものに留めることを意味する。(本書p.49~p.50)

 要するにリバタリアンといっても内実は既存のイデオロギー分類では上手く整理できないほど多様だということだ。自由市場・最小国家・社会的寛容を通奏低音としつつも,個々人がそれぞれにリバタリアニズムを解釈している。(本書p.61)


 また,リバタリアニズム系の人たちは,「○○イズム」とか「○○運動」という集合的なイデオロギーや価値観を忌避する傾向があり,したがって自らを「リバタリアン」と見なすことを拒否する人も多い。そういった何らかの同調を強制するような集合的な価値観やアイデンティティから自由を求める態度も,リバタリアニズムの共通の特徴と言えよう。すなわち,マルクス主義や共産主義,ファシズム,ナショナリズム,ポピュリズム,レイシズムなどにはもちろん反対だし,政府の存在自体にも拒否反応を示す。

 アメリカ・リバタリアニズムの祖とでもいうべき存在のアイン・ランドについて,本書ではこう述べられている。

 確かにランドは「○○主義」や「○○運動」といったイデオロギーに導かれた思考態度を拒絶した。教条主義ないしそれに伴う集合的熱狂は理性的判断を攪乱すると考えたからである。(本書p.55)

 本書では
自由市場・最小国家・社会的寛容
がリバタリアニズムの共通項であると繰り返し述べられるが,それだけでは抽象的すぎて,具体的なイメージが湧きにくいかもしれない。そこで,もう少しリバタリアニズムを個別具体的に述べてみたい。

 例えば所得の再分配や銃規制などについては,保守派のように反対するが,他方,人工妊娠中絶や同性婚,移民,LGBTQの権利,他宗教などについては,リベラル派のように賛成の立場をとる。また,死刑や軍備増強に反対するのもリベラル派と同様である。要するに,リバタリアンは個人の自由に至上の価値を見出していて,すべてのことを個人や市場に委ねようという立場は一貫している。

 「経済的には保守,社会的にはリベラル」とまとめることも可能だが,こうした理解は誤解を招く。というのも,軍備拡張や厳罰化に熱心な保守派も,規制強化や社会保障に熱心なリベラル派も,「大きな政府」を前提にしている点では共通していると,リバタリアンは批判的に見るからだ。だから,共和党の経済政策にしても民主党の社会政策にしても,政府による介入・計画を是としている点で,リバタリアンの考える自由社会とは相容れないものである。二大政党制といわれるアメリカではあるが,リバタリアニズムという視点を入れて検討することで,「保守/リベラル」という単純な二項対立の図式ではとらえきれない現代アメリカ社会の複雑さを知ることができる。

 さらに個別イシューに立ち入って検討してみると,リバタリアンの間でも微妙な意見の相違があり,複雑に入り組んでいて整理が難しい。詳しくは本書を読んでほしいが,もはや従来の「保守/リベラル」「右派/左派」の枠組みからははみ出す思想的な広がりや世界観を,リバタリアニズムが持っていることは確かだ。

 「リバタリアン」という言葉が今日的な意味で広く用いられるようになったのも五〇年代だ。アメリカでは建国以来,自由主義,とりわけ政府による介入を自由への「障壁」と見なす考え方が主流だった。(中略)しかし,先述の通り,三〇年代以降,自由をめぐる政府の役割認識が逆転し,「大きな政府」を容認する進歩派が「リベラル」と称されるようになった。そこでアメリカ本来の自由主義を取り戻そうとする一派が辿り着いた言葉が「リバタリアン」だというわけである。(本書p.75)

 このように,「弱者に冷たい」「外交・安保観が甘い」と批判されることの多いリバタリアンだが,ベーシック・インカムを支持する者もいれば,イラク戦争を正戦と捉える者,移民の受け入れ制限を説く者もいる。個別具体論になればなるほど,「自由」をめぐる解釈にも幅があるということだ。(本書p.111)


 リバタリアニズムといっても20世紀になってから新たに出てきた潮流というわけではなく,その源流は建国にまで遡ることができる。上の引用にもあるように,アメリカではもともと政府による介入を「悪」,つまり「自由への障壁」とする考え方が主流で,自律的な市民による自治・統治を国是としてきた。ところが,1930年代のニューディール政策の出現によって「大きな政府」を容認する立場が「リベラル」と見なされるようになったのだが,現在のリバタリアニズムの盛り上がりは,アメリカ社会の原点回帰,つまり古典的リベラリズムへの回帰を示す現象と言えよう。アメリカという国はもともと,旧体制と権力への異議申し立てから生まれた国だったのだ。その意味では,リバタリアニズムという流れは,出てくるべくして出てきたアメリカの「原」保守,保守本流と言えるかもしれない。

 リバタリアニズムはアメリカ最古の思想ですが,今,最も成長著しい思想でもあります。(本書p.69)


 さて,アメリカを見ることは,いろんな意味で日本を見ることでもある。アメリカにおけるリバタリアニズムの多様な広がりに照らしてみて,日本はどう見えるか。日本では「保守・リベラル」めぐる議論は近年盛んだが,その中でリバタリアニズムが強く意識されることは少ない。そのことは,日本における「思想の貧困」を映し出していると言えないだろうか。経済的には保守で,社会的にはリベラルという立場は,日本ではあり得ないものになっている。経済的に「小さな政府」(保守)を志向する者は,社会的には愛国心や軍国主義に訴える場合が多い。逆に,経済的に「大きな政府」(リベラル)を志向する者は,社会的には移民や宗教,性的少数者などの問題で寛容である場合が多い。

 筆者も言うように,リバタリアニズムという視点は日本の言論・思想に最も欠落しているものであろう。その意味で本書は,アメリカにおけるリバタリアニズムの動向を知ることに留まらず,日本社会の制度や規範を考える上でも大変有益である。第3章の冒頭には,「ノーラン・チャート」と呼ばれる,リバタリアニズムの位置づけを示した図が載っている(↓↓下図)。これも日本の言説や政治を考える上で参考になるだろう。つまり日本では,ここにあるリバタリアニズムの象限が欠落しているわけである。リバタリアニズムに賛同するかどうかは別にして,このことは日本の言論や思想の幅や奥行きを狭め,政策の選択肢を少なくしている,と言えないだろうか。



 第3章「リバタリアニズムの思想的系譜と論争」は,私には一番刺激的で為になる内容だった。リバタリアニズムの思想的・哲学的背景や系譜が述べられているわけだが,それを読むと,私自身の立ち位置が
古典的自由主義者」(古典的リベラル,ソフト・リバタリアン
に限りなく近いと気づかされた。これはリバタリアンの中で最も穏健で中道に近い立場とされる。ジョン・ロックやアダム・スミスなど18世紀の古典的自由主義を起源とし,国家権力の強大化を警戒しつつも政府の役割は一定程度 容認する立場で,フリードマン流の「無政府資本主義」(アナルコ・キャピタリズム)やノージックが体系化した「最小国家主義」(ミナキズム)とは一線を画す。

 そして,もう一つ私の立場に近いと思ったのは,リバタリアンとリバラル派の双方を批判したコミュニタリアン(共同体主義者)の立場である。コミュニタリアニズムも今の日本の言論では欠落している観点であろう。本書ではコミュニタリアニズムについては,リバタリアニズムに関わる範囲で最小限の言及しかないが,リベラリズムとコミュニタリアニズムの関連・接続をずっと考えてきた私にとっては大変興味深い論点だった。リバタリアンが個人の権利を「普遍的な正義」と前提するのに対して,コミュニタリアンは,国家と個人をつなぐ共同体が国家主義や個人主義の暴走を防ぐ防波堤になりうると考える。とても重要な論点だが,本書の課題ではないため示唆的な言及に留まっているのが残念である。

 リバタリアニズムもリベラリズムも個人の権利を「普遍的な正義」と考えているが,サンデル(=コミュニタリアン)は個人が特定の歴史的・社会的文脈=「共同体の善」のなかに埋め込まれている点を重視し,普遍主義を議論の前提(出発点)とすることを拒む。(本書p.112)

 それから,リバタリアニズムの理論的支柱が経済学である点も重要な論点である。経済学の性質によって,そのリバタリアニズムの性格もまた変わってくるのである。フリードマンらのシカゴ学派の経済学がベースになれば,「弱者切り捨て」や「市場万能主義」を容認するハードなリバタリアニズムになるし,ミーゼスやハイエクらのオーストリア学派がベースであれば,もう少しバランスのとれた,市場や社会の自生的な秩序を尊重するリバタリアニズムになる。「リバタリアン」とか「リバタリアニズム」という用語が日本では蔑称のように使われるのも,日本の経済学が新自由主義を基礎づけるものにしかなっていないからだ,と私は常々思っている。先ほども指摘した日本における「思想の貧困」という問題状況は,「新古典派経済学」(市場均衡論)一本槍の日本の経済学にその責任の一端がある。経済学者と呼ばれる連中には厳しく反省を求めたいところである。

 いろいろと重要な論点があって興味が尽きないが,何よりリバタリアニズムが私たちに最も強く提起するのは,「国家」への懐疑である。特に明治維新以降,中央集権型の国家発展を遂げ,いまだに「お上」に依存する傾向の強い日本では,リバタリアニズムの再検討は不可欠の思想的課題と言えよう。「国家権力」に懐疑的なリバタリアンにとっては,「国家」や「国民」よりも何よりも「個人」が先にくる。それは,「国家」や「国民」などといった集合的な価値やアイデンティティに内在する強制力・暴力性を,誰よりも強く認識しているからだ。今日,世界では,グローバル化の進展の一方で,「アイデンティティの政治」という集合主義に訴える大衆迎合的な「強い指導者」が其処此処で現れ,国家がその存在価値をますます高めている。今日のリバタリアニズムの隆盛は,そのような時代や状況に対する拒絶反応,もしくは異議申し立てとも言えよう。個別の政策論の是非は別にして,少なくともリバタリアンが示す拒絶感だけは共有したい。