日本はなぜ死刑を廃止できないのか | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 日本はなぜ死刑廃止条約を批准しないのだろうか。また,国連機関やEU各国,人権擁護団体など国際社会からの抗議に,なぜ真面目に向き合おうとしないのでしょう。まあ,結論だけを言ってしまえば,日本の権力機構が死刑制度をどうしても手放したくないからなのだろうが,つまり今,日本で死刑というものは,凶悪犯罪の抑止とか加害者の償いとか,あるいは被害者遺族の復讐感情とかいうことには一切関係なく,権力の絶対性を担保するために行われているということなのである。特に今回の大量処刑は,国民に参加も抵抗も無意味であることを思い知らせるために行われた絶対主義的な権力行使であり,いよいよこの国の全体主義も来るところまで来たか,と絶望的な気分になる。

 どうしてここまで日本という国や日本人というのは,国際社会から非難を浴びてもいけしゃあしゃあとしてられるのだろうか。国際社会を敵に回してまでも,我関せずと自己を主張できるその自信や根拠はどこから来ているのだろう。どうして正義がこっちにあると脳天気に思い込めるのか,不思議に思うわけである。

 例えば核兵器禁止条約に関しても,日本は不参加のままだ。国際社会や被爆者団体からの要請にもかかわらず,日本は頑なに参加を拒んでいる。唯一の戦争被爆国である日本こそが核兵器禁止を率先して訴えていくべきだと私などは考えるのだが,そういう正論が国内では通用しない状況がある。

 こういう国際世論を無視してもOK!だとする日本の態度を成り立たせているのは,まず一つに,米国の存在があるだろう。日本にとって「国際社会」とは米国とイコールなわけだから,米国の声さえ聞いていれば,それでいいということになる。実質的に米国の植民地とされ,主権を奪われている日本にとって,国際化とは米国にこびへつらうこととほぼ同値なのだ。

 こういった議論はよく耳にするのだが,日本の国際社会を無視した独断的態度については,もうちょっと掘り下げて,国内的要因を考える必要がある。そこには,米国との関係以上に根深い問題が潜んでいるように思うのである。それは,米国という要素を無視できるサッカーの世界を見ると,よくわかる。

 ここでは,サッカー日本代表(現・元)の発言を手がかりに考えてみよう。例えば,ベルギー戦で得点した乾は,調子に乗って次のような発言をしている。

 急きょの監督交代でこの大会を迎えましたけど、僕自身はたぶんハリルさん(ハリルホジッチ前監督)なら選ばれてなかったと思いますし、試合に使ってもらえることはなかったと思います。
 (中略)
・・・自分をギリギリまで待ってくれて最終23人のメンバーに選んでくれた(西野監督への)感謝の気持ちをこの大会にぶつけたいという思いがありました。

 (「ベルギー戦でもゴールの乾が激白「ハリル前監督なら僕は選ばれてなかった」〈dot.〉」

 それまでハリルホジッチに何度か起用されてきた選手が,なぜこんなことを言うのか不思議なのだが,要は外国人監督に対する根本的な不信感が,乾にはある。他のインタビューでも,「その判断(ハリルホジッチ監督との契約解除)はそのときから素晴らしいと思っていたし、勇気ある決断だったと思っている」と発言して,今回日本が決勝トーナメントに進出できたのは,あたかもハリルの解任が大きな要因であったかのように語っているのである。そこには,ハリルが解任されなかったらオレは代表に選ばれなかっただろうし,よって日本は決勝トーナメントにも進めなかっただろう,という嫌みというか自惚れが読み取れる。だからオレを選んだ西野監督は素晴らしいという結論になるわけである。

 乾はハリルの戦術(デュエルや縦へのスピード)が日本人には合わない,という趣旨のことも言っているけれども,そういう乾の戦術論を見ても,ハリルに対する敬意や,世界のトップレベルから学ぼうという謙虚さが全く感じられないのである。ベルギー戦の失点シーンなどを見ても,ハリルが教えた世界レベルの戦術に日本が痛い目に遭ったことがわかるだろう。

 外国人監督から何も学ぼうとせず,とにかく日本人監督は素晴らしいんだという断定的な議論は,乾以外にも,いろんな人から聞かれる。例えば元日本代表の秋田豊や闘莉王も,監督は日本人の方が良いと強く主張していた(「秋田豊、ベルギー戦後に『ハリル批判』」)。

 だがそれも結局,乾と同様に,技術・戦術面や精神面の強化という合理的な観点からではなくて,コミュニケーションのしやすさとか,日本人の心がわかっているとかいう,何とも甘ったれた情緒的な心情によるものなのである。日本人監督がどれだけ世界のサッカーを知っていて,国際的な経験や実績を積んでいるのかについては,「そんなの関係ねぇ」という態度で,全くアホらしくなる。要は外国人に対する劣等感や差別感情から,外国人はダメで日本人は素晴らしいと言っているネット言論と大して変わらないのである。

 キャプテンの長谷部にいたっては,ベルギー戦後のテレビインタビュー(フジテレビ系「S-PARK」)で,「ポーランド戦に関しては,子どもたちに見せられないという意見があると思いますが,むしろあの試合こそ子どもたちに見てもらって,勝負の世界の厳しさを学んでほしいと思っている」という趣旨のことを話していた。私はこういう意見は非常に危険だと思っている。前にも何度か書いたが,いわば一国の憲法にあたるFIFAの行動規範に反した自分たちの行動を,もはや開き直って積極的に子どもたちに勧めているからである。厳しい状況,いわゆる緊急事態を理由にすれば,憲法も国際法規範(条約も慣習法も)も破っていいと,長谷部は主張しているわけである。

 こういう長谷部の開き直りに,死刑廃止条約や核兵器禁止条約などに対する日本政府の態度と同質のものを,私は感じてしまうのである。何も国際社会の声が全部正しいというわけではないだろう。だが,国際社会の法規範や慣習,呼びかけや抗議などは,いろんな歴史的背景や多数の国・民族同士の合意があって出てきたものであるから,それなりに普遍性や合理性はあるだろう。だから,少なくともそれに謙虚に耳を傾け,自己を点検する姿勢が日本の政治家や指導者には欲しい。それがないから,未だに死刑制度を存置していたり,朝鮮学校に差別的行政を行ったり,障害者強制不妊手術の補償を認めようとしないなど,国際社会からはズレた,後れた意識や法制度が残っているのだと思う。

 そういう意味では,セネガルがFIFAに,日本のアンフェアなやり方について抗議したことは極めて正当なものだ。セネガルサッカー連盟(FSF)がFIFAに送ったとされる抗議文がネット上のニュースにあったので,下に引用する。

 「我々は、コロンビアが得点したことを知り、日本が文字通りプレーすることを拒否したと信じている。これはフットボール界の指導原理に反している。日本の監督がこの事実を否定しなかったことはショックだった」
「“歴史的敗退”セネガルがFIFAに抗議『日本にペナルティを科すべきだ』」

 重要なのは赤で示した部分である。これまで談合や無気力試合を疑われたケースと,今回の日本のケースとが決定的に違うのは,日本の監督が
サッカー界の「指導原理」=FIFAの行動規範(PLAY TO WIN)
を破ったことを認めてしまっている点なのである。これが意味することは,FIFA行動規範への日本の反逆・挑戦ということである。つまり,日本はこれからもこういう国際法的な規範を何ら臆することなく破っていくぞというメッセージを,日本は世界に発信したということになる。FSFが受けた「ショック」は国際社会が共有するものであり,FIFA行動規範を守るためには日本を除名するぐらいの厳しい制裁を科して然るべきなのである。主催者FIFAは,莫大な放映権料をもらう日本の電通に忖度することなく,こういう日本の規範破りに対して明確な判断を示してほしいと思う。

 前にも書いたけれども,FIFA行動規範が憲法なら,競技規則(ルール)は法律である。ルール内で決勝トーナメントに勝ち上がったのだから問題ない,という日本で支配的な議論は,
死刑は国内の法律で定められているのだから,憲法違反でも問題ない,とか,
死刑は内政問題だから死刑廃止条約を批准する必要はないとか
厳しい国際環境の変化を考えれば,核兵器禁止条約に加盟する必要はないとか,
そういう議論と,法規範意識の欠如という点で同根なのである。

 こういった日本人の独り善がりで,外国人排除を内面化した精神構造,あるいは法規範意識や基本的倫理観を欠いた日本人の意識態度が,日本で死刑制度を内面的に支えているのだと思う。西日本豪雨のさなか,オウム大量処刑の前祝いで祝杯を上げている自民党議員や閣僚に倫理観の欠片も内在していないことは言うまでもないが,こういうクズたちを支え,麻原以下7名もの命を一度に奪う死刑という国家暴力を許しているのも私たちだということに,今ここで気づかなくてはいけない。死刑囚の首に「ノコギリ」を引いているのは私たち一人一人だという,前回引いた大道寺将司の言葉が今も私の頭から離れないのだが,その言葉が意味するところをよく考えてみなければいけないと思うのである。

 死刑を強力な権力行使の手段として使う現政権は直ちに倒さないといけないが,同時に,国際社会の声に謙虚に耳を傾け,国際法規範や憲法を守り,死刑制度や人権蹂躙を日本からなくしていく方向に,日本社会の意識や世論,法制度を変えていかなければならない。そうでなければ,安倍以後も日本は虐殺国家のままであるに違いない。過去にも外にも目を向けず,今と内だけを見ていたら,未来に対して盲目になり破滅を招くだけだろう。

 ところでサッカーのワールドカップ16強は,日本を除いてすべて死刑廃止国だったという。なるほど日本が8強に進めなかったワケがわかるような気がする。進まなくて良かったとも思う。サッカーが文化として根づいている国は,それなりに法規範意識も国際感覚も倫理観も成熟しているのだろう...。


幸いは死者にこそあれ稲光
(大道寺将司『最終獄中通信』より)