姜信子「葬るな人よ,冥福を祈るな」(『現代思想』5月臨時増刊号) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 石牟礼道子さんが生前,沖縄・久高島を訪れていたことを,掲題のエッセイを読んで初めて知ったのだが,全く違和感なくその事実が私の中に入ってきた。前に私は比嘉康雄『日本人の魂の原郷――沖縄久高島』(集英社新書)を読んだとき,ここに描かれている世界は石牟礼道子の世界でもあるなという感想を持ったのだが,やはり通じるものがあったわけだ。石牟礼さんは沖縄の始原的な宗教世界に惹かれ,魂の原郷を探し求めて久高島に足を運んだのだろう。「神の島」と呼ばれる久高島が彼女を呼び寄せたのだな。

 掲題のエッセイは,石牟礼さんの次のような発言を引いていた。

 沖縄,南島,八重山,あの付近では,祈る人に神が直接降りてくるんですね。ほんとに美しい,気高い表情とたたずまいになって,(中略)ただもう信じて,祈る人たちは,ああいう美しいお顔になるんじゃないかと身ぶるいが出ました。
(『鶴見和子・対話まんだら 石牟礼道子の巻』より)
 (『現代思想』5月臨時増刊号p.30)



 姜さんは,石牟礼さんが久高島の祭「イザイホウ」の話をとても感慨深い様子で語っていたのを今もはっきり覚えているという。とてもよくわかる気がした。イザイホウは,母神を守護神と見る母性原理の祭祀で,島の女性神職者たちによって担われ,12年に一度行われてきた。比嘉さんの本には,その祭祀の様子が生き生きと描き出されていて深い感銘を受けたのだが,水俣の埋め立て地で,魂を鎮めるのではなく魂を起こすという趣旨で行われた〈出魂儀〉も,イザイホウに連なるものであろう。魂の不滅を信じ,魂の帰る場所そして再生する場所を海の彼方ニラーハラーに求め,「母たちの神」に守護をたのんでいる久高島の人々の精神文化は,石牟礼さんが描く魂の世界と重なり合う。

 もっとも原始的で無欲で,大らかな牧歌の神々は死に絶えてつつあった。一度も名のり出たことのない無冠の魂であったゆえに,おそらくはこの世に下された存在の錘鉛とでもいうべき人びとが,〈椿の海〉から生まれ出ていて,ほろびつつあった。そこから出郷したものたちも,土地や海の魂をひきついで残ったものたちも。
 (石牟礼道子『神々の村 「苦海浄土」第二部』)


 さて,このエッセイで姜さんは,石牟礼さんが語る「断念」について触れていた。石牟礼さんは,「断念の深淵」で,祈りとともに文学を紡ぎ続けたのだ,と。

 一人の人間が死にますときに,伝えられなかった念いというのがずうっと昔からあると思うんですね。断念してきた念いが。一番深い念いを断念してひとりの胸に呑み下してきて,伝えられなかったという念いを,私たちは代々受け継いでいると思うんですね。断念の深さを,断念の深淵を。
(神奈川大学講演「生命の連鎖する世界から」より)
 (『現代思想』5月臨時増刊号p.35)


 今日の沖縄慰霊の日に中学生が読んだ詩は,石牟礼さんの「断念」という言葉と見事に響き合う。すなわちこの詩は,沖縄戦によって断ち切られた念い,往生できない魂を引き受けて生きていく覚悟を述べたものなのである。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。 

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。

(中略)

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。




 すべての死せる者たちのあらゆる断念を受け継いで生きること,すべての生ける者たちの断念を胸に刻んで生きること。その厳しさを生ききったのが石牟礼道子という存在なのだろう。石牟礼道子の断念を私たちが引き継いでいく時,近代と植民地と沖縄・水俣の果てにきっとあるはずの「もう一つのこの世」が見えてくるのではなかろうか...。

 さらなる闇のこちらにあってわたくしのゆきたいところはどこか。この世ではなく,あの世でもなく,まして前世でもなく,もうひとつの,この世である。逃亡を許されなかった魂たちの呻吟するところにむかって,わたしは,自分に綱をつけてひっぱったり背中を押したたいたりして,ずるずるひきもどす。
 この世ではないもうひとつのこの世とはどこであろうか。
  生まれたときから
  気ちがいでございました
 ゆき女に仮託しておいた世界にむけて,いざり寄る。黒い死旗(しにはた)を立てて。

 (石牟礼道子『神々の村 「苦海浄土」第二部』藤原書店p.82)