理性と権力 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 今月末までに,ある図鑑の原稿を書き上げなくてはならず,今はそのことで頭が一杯で,ブログにあまり頭が回らないのだが,今日も懲りずに保守・リベラル問題について書いてみようと思う。前回は保守派には理性的で護憲であってほしいという願いも込めてかなり思いつきで書いてしまったが,今回も思いつくままに書くので,あまり突っ込まないようにしてもらいたい。というか,突っ込むほどの内容はない。

 さて,保守とリベラルの対立は古くて新しい問題なのだが,私が保守・リベラルの一つの基準としているのが,19世紀前半のマルサスとリカードの論争なのである。宇野重規さんの『保守主義とは何か』(中公新書)ではその論争への言及がなくて残念だったのだが,そこには保守・リベラルの対立の原型がある。経済学の教科書などでは,マルサス・リカード論争は穀物法をめぐる保護貿易か自由貿易かの論争として出てくるが,そういう経済政策上の対立だけでなく,政治的なレベルでも両者は論争を繰り広げた。すなわちリカードは選挙権をブルジョアや中間層に拡大するのを主張したのに対して,マルサスは地主・トーリー的立場から選挙権の拡張には慎重であった。

 細かな争点はさておき,そういう時事的な問題をめぐる論争・対決を通じて,両者はそれぞれ経済学という学問体系をつくり上げていったのである。時事的な論争が学問形成を促し,また逆に,学問体系が経済論争や政治運動に強力な武器を与えた。そのようにして学問も思想も鍛えられていったのである。マルサス・リカードの二人がつくった経済学は,現代経済学の諸潮流の源流にもなっている。

 ところで,若いころ私は,恩師がリカードの訳者(『経済学および課税の原理』)だったこともあって,マルサス・リカード論争の周辺をテーマにして勉強していたのだが,その時,恩師に言われた言葉が今も印象に残っている。「保守を何でも現状維持と見てはいけません。マルサスの救貧法批判を見なさい」と一喝されたのである。私は,マルサスなどの保護主義や地主的立場を全部,現状追認や後ろ向きなものとして否定的にとらえ,逆にリカードの自由貿易論や選挙法改正論だけを進歩的・革新的と見ていたのである。「保守」とは「保守反動」であるという左翼的な見方に完全に囚われていた。

 保守とリベラルの対立というのは,変革をめぐる対立だったのだと目を開かれた。そういう対立の中で経済学も議会制民主主義も難産の末,産み落とされてきたのである。結果だけを見るのではなく,そういう結果がどのようにしてもたらされたのか,その文脈,思想的な燃焼過程を見ることが大切だ。

 日本の保守・リベラルの対立・論争が全く不毛なものになっている現状を考えるとき,このマルサス・リカード論争は非常に重要な示唆をくれる。

 先ほどマルサスとリカードの論争は,変革をめぐる対立だと書いた。そこで私がその論争から学んだことの一つは,
理論的であることは批判的である
という事態なのである。マルサスもリカードも経済学という理論的な体系をつくり上げたが,それは現状をつくり変えることと,分かちがたく結びついていたのである。理論的であって,現状肯定的あるいは没批判的であるということは,両者にとってあり得ないオプションだった。もちろん,何に対して,どのような根拠で,どのような方法で批判的になるかは,その理論のあり方や組み立てによる。

 マルサス(=保守)とリカード(=リベラル)は,理論的であることと批判的であることは一致しているという共通の土台の上で勝負しているのである。そういう思想的土俵が日本には決定的に欠けている。それは日本の保守やリベラルだけでなく,左翼・マルクス主義やポストモダン・脱構築主義などを含めた日本の論壇全体にあてはまるだろう。

 例えば,保守派の西部邁さんや佐伯啓思さんなどは,経済学という理論的な学問をベースに考え発言していて,経済についてはかなり批判的で同意できる部分も多いが,政治社会的には理性による合理的な改革を否定してニヒリズムになっている。

 他方,日本のポストモダンの代表格とも言える東浩紀さんは,デリダやフーコーを読み間違えているんじゃないかとさえ思えてくる。例えば「権力は生産する」というフーコーの命題は重要である。つまり経済活動だけが財・サービスの生産をするのではなく,政治権力も支配者・被支配者という服従主体をたえず生産するのである。近代の理性はこの「生産」の世界を貫徹している。だから理性は権力と同質化していく必然的な傾向を持っているのである。「生産」という磁場で理性と権力は互いに牽引し合う。そのことに無自覚であると,権力からの自立をいくら声高に唱えても,理性は権力の正当化機能を担うことになる。言い換えれば,理論と批判は乖離していく。

 東さんの福島第一原発観光地化計画にしても,天皇元首化・自衛隊国軍化などの憲法改正論にしても,家族の重視や選挙棄権キャンペーンにしても,権力におもねっているように見えるのは私だけではないだろう。理論的であることが,現状肯定であるばかりか権力の太鼓持ちになっているのである。哲学(形而上学)は,近代の生産主義的理性に基づく限り,本人の意識を越えて,政治権力の基礎づけをやってきた。マルクスは哲学のこの機能を「イデオロギー」の機能と呼んだが,東さんは今,まさにそのイデオロギー機能を担っている。そのために権力に易々と取り込まれていることに全く無自覚なのだ。東さんは,マルクスのイデオロギー批判がデリダの脱構築に流れ込んでいるのを全く読み取っていない。

 脱構築主義がやろうとしたのは,理性と権力の複雑きわまる内面的関連を暴露することであったはずだ。私はそう理解している。理性と権力の共犯関係を構築する近代知の構図全体を解体し,そこから脱出するパサージュを見つけ出すことは,脱構築主義に限らず,保守やリベラルなど現代の思想全体に課せられた共通テーマだと私は思う。

 その意味で,近代的理性の中にありながら,権力からの自立を果たしているマルサス・リカード論争から,現代の私たちが学ぶことは少なくない。全く古くなっていないのだ。理論的であろうとすれば,権力批判,イデオロギー批判になる。理論と批判は収斂するのだということを教えてくれる。