富村順一獄中手記『わんがうまりあ沖縄』 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 上は昨日の中日新聞の社会面だが,これを見て感じる気持ち悪さを共有してもらえるだろうか。見開き社会面の右上には,来年度から使われる道徳教科書に造形作家の故・夢童由里子さんらが取り上げられたという記事があり,そしてすぐその下に天皇・皇后の沖縄訪問の記事が載っている。

 たまたまこういう紙面構成になったのかもしれないが,結果として非常に気持ちの悪いものになっている。来年度から「道徳」が正式教科になり,「国を愛する態度」や「我が国の伝統や文化の尊重」などが主要な指導項目とされるが,よく批判される通りこれは戦前の「修身」を思い起こさせるもので,その復活と言ってもいい。特に満州事変以後の「修身」では,教育勅語と連動して天皇がその中心的価値や徳目として存在していた。だから,そのうち,この記事にあるような天皇と沖縄の人たちの交流が道徳教科書に取り上げられるのではないかと恐れるわけである。こういう紙面を見て気持ち悪さも何も感じないとしたら,時勢に流されて,もう忌まわしい歴史を完全に忘れてしまったとしか言いようがない。

 そして社会面のメイン左側は言うまでもなく,元財務省官僚の証人喚問についての記事だ。この事件も,教育勅語を暗誦させるような私立学校の設立に政治権力が介入していたところに問題の本質があったわけで,戦前の愛国教育の復活という点で「道徳」の教科化と同じ根を持っている。また,名古屋の公立中学校であった自民党議員による教育内容への露骨な調査・介入や,東京都足立区の中学校で行われた性教育に都議がイチャモンを付けた件など,そういう教育内容への権力のさまざまな介入という問題は,目に見えないだけで今は各地で多く起こっているのだろうと予測する。今日強行採決された東京都の迷惑防止条例改正も,戦前の国家体制への回帰というより広い観点から見れば同系の問題に属することは説明するまでもない。

 これら一連の問題は全部,こうした戦前体制(国体)への回帰という一つの根から来ているわけである。それを求める勢力が,特に第2次アベ政権以降は俄然力を増し,政治も教育も地方も支配している。こういう状況を考えると,やはり天皇制国家との闘い,天皇の戦争責任追及は終わらせてはいけないと思うわけである。

 さて,その闘いについては2人の重要人物がいる。

 前に映画「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三について書いたが,もう一人,全生涯,全実存を賭けて天皇の戦争責任を追及した男がいた。沖縄出身の富村順一である。富村は東京タワー展望台占拠事件を起こして有罪になった後,獄中で手記『わんがうまりあ沖縄』を書いたが,これを読むと,彼の天皇・皇軍に対する怨念・慷慨の情が,奥崎に勝るとも劣らないくらい凄まじいものであることがわかる。

 奥崎の場合は軍隊経験が自身の天皇制批判の原点にあったが,一方,奥崎より10歳ほど若い富村は,軍隊経験はないが,生まれながらに天皇批判を背負った人生であった。

 富村は昭和5年生まれだが,よく生年月日がよくわからないので,5月3日の憲法記念日をわかりやすく自分の誕生日にしたという。そして手記の至る所で,戦時中本土からやって来た天皇の軍隊の傍若無人ぶりを記している。

 沖縄人民のヴォウクウゴに日本の兵隊が逃げてきて,子供がなけば米軍にみつかるから子供をなかすな言て,その母は自分の子供を,口をおさえてころしてしまいました。
 又私たちがたべて居るにぎりめしを,うばいとり,日本軍は自分でたべる事が何度も有りました。

 (『わんがうまりあ沖縄』柘植書房p.21)


 富村の最終学歴は,天皇のご真影に最敬礼しなかったために小学校3年である。

 私が三年の時です。ズボンがやぶけてシリが見えるので,私はお友だちと,学校えなだ(ら)んで行かずに,ひとりでうだ(ら)門を通りました。そのとこを,仲宗根先生に見つかり,なぜ君は本門をとうり天皇ヘイカの写真にサイケイデ(レ)イをしないのかと,学校の先生をはじめ学友たちにも,ふんだり,けえたりやられでました。その事にて私は学校にいかなくなりました。(同書p.21)

 小学校教育もまとも見受けられなかったことが影響していると思われるが,上の引用にも見られるように,富村の書く文章はラ行とダ行が置き換わっている。最初は戸惑ったが,これも読み進めるうちに慣れてきて,富村の感情や精神性を伝える一つの文体として確立しているように感じた。

 ところで,私が沖縄戦のことをまともに知ったのは,たぶんこの本だった。沖縄戦が唯一,日本固有の領土で行われた地上戦であり,それがどれだけ悲惨なものであったかを,学術書ではなく,現場を目撃した人間の生の証言で知ったことは,自分の歴史認識の形成にとって大切な経験だった。

 十代の富村が見た,日本の敗戦前に沖縄に上陸した米軍は,ポツダム宣言受諾後に本土に進駐して子どもたちにチョコレートを配った明るいGIではなかった。――

 沖縄にぞ(じょ)うりくした米軍は,沖縄の女性を見るなり「ライオン」や「トラ」のごとくおそいかかり,暴行したあげく,父とむすめをはだかにして,(中略)たのしんで居る事を見ましたら,戦争とはこわいものではなく,かなしいものと思うようになりました。(同書p.22)


 沖縄戦中に十代の富村が米兵たちから初めて聞いた英語は,「ヒロヒトイッせ」だったという。

 私達が米兵のまねをして「ヒロヒトイッせ」と言いますと,米兵はよろこび,タバコやカンズメなろをなげてくれて居りました。又米兵は時々自分の首に手をあて「ヒロヒト」「カト」言って居り,そのことばが沖縄戦争の米軍の合いことばでした。
 英語を話す沖縄人から聞いてみますと,なんとその事が天皇の首を切でと言ういみとわかり,自分ながらびっくりしました。
(同書p.78)

 その他,久米島での虐殺事件や瀬長亀次郎との関わり,沖縄の朝鮮人売春婦,方言札,沖縄返還反対運動,冤罪で捕まり犯人に決めつける取調官の前で自らの指を切り落としたこと,死刑反対の主張,朝鮮人女性との哀しい恋やハンセン病のおじさんとの心温まる交流,東京タワー占拠事件では在日朝鮮人と子どもは降ろしたこと等々,興味深い話がたくさんある。ここには,教科書では決して教えてくれない,沖縄の生きた歴史が書かれていると思った。

 今私の手もとにある本書は,新装版で1993年初版とあるから,四半世紀ぶりに読み返したわけだが,今回,最後の長々しい意見陳述書まで読んでみて思ったのは,表現に回りくどさや稚拙さ,下品さなどがあるにしても,富村の立ち位置が全くぶれていないということである。すなわち,富村は〈沖縄と戦争と天皇〉という3つの項が交わるところに,独自の個として存在している。もう少しわかりやすく言えば,富村は沖縄を出撃拠点として,沖縄戦中の日本軍の民衆虐殺を糾弾し,天皇の戦争責任を追及し続けているのである。その一貫した姿勢と執念は奥崎に匹敵する。

  天皇は第二次大戦で三百万を犠牲にした責任をとれ!沖縄の女性みたいに正田美智子も売春婦になり沖縄人民のためにつくせ!それがせめてもの人民への償いである。(同書p.214)
 (中略)
 そのようにさせないとわれわれ沖縄人民の気持ちは,天皇にはわかるまい!!(同書p.254)

 日本の政府もそんなに「道徳」を正式教科にしたいのなら,私はその教科書にこの『わんがうまりあ沖縄』を薦めたい。これは,日本の「道徳と天皇」(国家神道)を爆破する「ばくらん」である...。