水俣病の公式確認は1956年(昭和31年)のことだが,その3年ほど前には,いわゆる「ネコおどり」が始まり,原因不明の脳症状患者(のちに水俣病認定第一号となる)が発生している。
ところで1956年は,経済企画庁が『経済白書』で
「もはや戦後ではない」
と宣言した年でもある。このいわば戦後への決別宣言は,科学技術への信頼に支えられていたといえる。科学技術の導入による経済成長。焼け野原からたった10年で高度経済成長を迎えられたのは,なんといっても科学技術のおかげだ。そういう確信で,この年の『経済白書』は縁取られている。このころの『経済白書』は,この「もはや戦後ではない」といった文学的表現からもうかがえるように,今と違って一般素人でも十分読みやすく,経済指標だけでなく時代全体の空気を映す表現が多く見られる。
「三種の神器」と神武景気に沸く1956年は,日本の原発元年でもあった。詳しいことは省くが,この年,政府内に原子力委員会が設置され,科学技術庁も創設されて,初の原子力予算が要求された。実験用原子炉がアメリカから東海村に届き,翌年には原子炉は臨界に達する。
実は1956年には,もう一つ,ここでは無視できない重要なできごとが文学の世界で起こっている。一橋の学生だった石原慎太郎が,湘南海岸で夏の日を過ごす自由奔放な若者を描いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したのである。本書は映画化もされて大ヒットし,「太陽族」なるものが一世を風靡した。
経済企画庁が「戦後の終わり」を宣言した1956年は,「現代への始まり」でもあった。否,「地獄への入り口」と言った方がよいか。焼け野原の中での貧しさの平等が崩れて,少数の勝ち組と多数の負け組への分解が始まった。石原慎太郎の父は,戦前日本の植民地帝国の海で荒稼ぎした船成金だ。そんな家に生まれたのだから,いい気になって湘南でヨット遊びができる。そんな少数の「太陽族」の背後には,貧困や公害病の予備軍がごまんといた。
環境庁長官だった石原慎太郎が水俣を訪れたとき,患者の抗議文を読んで,
「これを書いたのはIQの低い人たちでしょう」
と患者を激しく侮辱した発言をする。患者の気持ちをこれっぽっちも理解しようとしない,差別がそのまま人格化したような奴がずっと国会議員や大臣をやり,その後は東京都知事も長らく務めていたわけである。このことだけ見ても日本の政治がどんなレベルかがわかる。今も似たような極右の差別主義者が都知事で,朝鮮人虐殺を否定するなどファシストっぷりを遺憾なく発揮している。安倍晋三が北朝鮮に対して圧力をかけることしか知らず,麻生太郎が朝鮮からの難民は射殺せよと公言しても,何ら驚かない。すでに石原慎太郎は陸上自衛隊の式典で「三国人が騒擾事件を起こせば直ちに出動してもらう」と発言しているのだから。
「55年体制」という名の自民党一党独裁は,その名の通り1955年に始まり,ほんの一瞬ガス抜きはあったけれども,今も変わらず続いている。それは石原慎太郎の水俣差別に象徴されるように,差別や不平等を放置し,弱者や敗者を切り捨てていく政治であり,別の角度から見れば,科学技術への信頼にもとづいた経済成長至上主義と言い換えることもできる。アベノミクスにしても,経済成長一辺倒の思考から少しも抜け出ていない。「もはや戦後ではない」という『経済白書』の敷いたルートを,今も私たちは忠実に進まされている。
戦後起こった薬害事件も枚挙にいとまがない。1956年に厚生省は,ペニシリン・ショック死の多発を受けてペニシリン販売の規制を発表している。サリドマイドにしてもスモンにしても,医学と資本が手を組んだ薬害は,この1956年頃から始まっている。
さて,1956年に公式確認された水俣病だが,日本政府が水俣病を公害病としてしぶしぶ認めたのは,なんとその12年後のことであった。そして,チッソの社長と工場長の有罪が確定するのは,さらにその20年後の1988年のこと。水俣病の事実上の発生からは35年が経過していた。
科学技術の発展と経済成長がつくり出した便利さと快適さを私たちは捨てられない。だが,工業生産とは,自然から製品とともにヘドロを生み出す一種の破壊のことだ。そのことを私たちは自覚せねばならない。水俣の海だけなく,私たちは皆,産業廃棄物の中で生きてきた。水俣病は特殊な事例ではない。水俣病にならなかった人間は,ラッキーが重なっただけだ。
近代科学は,原因を取り除けば結果も消えると考える。だが,水銀を地中に閉じ込めることで,本当に水銀被害を一切封じ込めたといえるだろうか。体内に蓄積された微量水銀の影響はおそらく何世代も消えない。
科学理論は,繰り返し実験をすることによって,その客観性を担保してきた。しかし,人間の命や自然環境は一回限りで,実験するわけにはいかない。にもかかわらず,私たち日本の住人たちは,1956年から科学技術と高度経済成長が一体何をもたらすかという実験のモルモットにされてきたのである。そのことを水俣の海から見つめていた作家が一人いた。1960年に同人誌で「空と海のあいだに」(のちの『苦海浄土』)の連載を始めた石牟礼道子である。
1956年に『経済白書』が書いた「もはや戦後ではない」という当時流行語にもなった言葉は,
「もはや人間ではない」
と言い換え可能だ。つまり日本人はモルモットということ。あの『経済白書』は,手術前に強制的にサインさせられる承諾書みたいなもので,「水俣の魚を食べているような貧乏人たちは原因不明の病気や障害にかかるかもしれないし,下手をすれば死ぬかもしれないが,そうなっても文句は言うな」という空恐ろしい「モルモット」宣告だったわけである。今も私たちは,放射能に汚染された空と海のあいだにモルモットのままでいる...。