ここ10年以上,私はいつも石牟礼道子さんの声を聞いていたような気がする。
代表作の『苦海浄土』は記録文学の傑作と評価が定まり,筑豊炭鉱の記録作家・上野英信もたぶんそのつもりで石牟礼さんに『苦海浄土』を書かせたのだろうが,どうもその見込みは良い方に外れたというか,その期待を大きく上回って,『苦海浄土』は単なる水俣病のルポルタージュを超えたスケールの作品になった。つまり,ノンフィクションとかルポルタージュという次元を超えて,それははるかに詩的なコスモロジーなのである。詩心が息づき,何か一つの音楽のようにこだまして読者の心に響いてくる。
石牟礼さんは,自分の職業・肩書きを聞かれれば「詩人かな」と答えることが多かったようだ。ノンフィクション作家とか小説家とかいう肩書きは,石牟礼さんに相応しくない。やはり「詩人」というのが石牟礼さんの真髄を言い表すには一番適切かもしれない。『苦海浄土』を読めば,作者の心は詩人であることがわかる。だが,詩人という一つのカテゴリーだけでは収まりきらない余白というかスケールが石牟礼さんの魅力であろう。
『苦海浄土』の詩的な世界に浸っていると,石牟礼さんや水俣病患者さんの声が本当に聞こえてくるような,そんな現実と幻想の微妙なはざまに陥る。水俣病患者とその家族だけではない。それは,現実から追放されたすべての人間たちの心の声をすくい上げているし,さらには,生者も死者も分け隔てなく,生きとし生けるものすべての「いのち」の声を伝えている。まさにこの作品は「いのち」の声,「いのち」の歌だ。その意味では『苦海浄土』は言語以前の世界であり,人類史の根幹を問うた作品でもある。すなわち,そこには人類史の発端というか,人類が川辺で定住生活を始めたときに見た原郷が描かれ,それはまた人類史の終局に来る彼岸,浄土でもあるのだろう。
ここで言っている「いのち」とは,単に一つの個体のいのちではなくて,母から母へと大切に受け継がれ,幾世代にもわたり,めぐりめぐって小さな花を咲かせる。どんな過酷な受難にあっても,「いのち」はいずれ必ず花となって開く。そんな「いのち」のつながりを中心に据えた詩的な物語が『苦海浄土』である。それは水俣病の地獄絵を描いた作品とされるけれども,実はそういう「いのち」の全肯定,オプティミズムが作品の奥底には流れている。
生と死,人と自然,アニミズムとプレアニミズムを絶えず行き来していた石牟礼さんだから,あえてその死を悼まない。死を経て,石牟礼さんはもっと深く読まれるようになるだろうし,きっともっと私たちに近くなる。
上野英信が筑豊の地底で坑夫たちと眠っているとしたら,たぶん石牟礼さんの魂は不知火海の底で水俣病患者さんたちといっしょに眠るに違いない。水銀漬けになる前の,あの「夢んごてうつくし」竜宮に...
海の底の景色も陸の上とおんなじに,春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ,きっと海の底には竜宮のあるちおもうとる。夢んごてうつくしかもね。(『苦海浄土』)
******************************************
「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第6回 石牟礼道子」
※この番組に,『苦海浄土』に出ていた杢太郎(もくたろう)少年が石牟礼さんと再会する場面があり(32:00頃),数年前これを観たときは号泣してしまいました。石牟礼さん死去:水俣の魂紡ぐ 豊かな海と人に寄り添い https://t.co/3oVYC93iMK
— 毎日新聞ニュース速報 (@mainichijpnews) 2018年2月10日