岡本裕一朗『フランス現代思想史』(中公新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 昨日の中日新聞夕刊・文化面に載った中島岳志さんの論壇時評は,今回の衆院選における東浩紀さんの「積極的棄権論」を重要な問題提起として高く評価しているわけだが,どうも強い違和感が残る論説であった。保守派らしい論説と言えばそうなのだが,東さんは本当に「政治に対する積極的なコミットメント」を促していたのかどうか,この投票ボイコットを「政治的抵抗の手段」として考えていたのかどうか,という点の分析・検討が甘いと思うわけである。今回の選挙がさまざまな問題を抱え,健全な民主主義とは程遠い事態があったことは,東さんに言われるまでもなく,多くの人がわかっていたはずである。そういう中で東さんが投票ボイコットを言い出した意味を思想的な文脈で考えると,中島さんのように東さんの議論を「慧眼(けいがん)であった」などと称賛できるわけがないのである。つまり東さんがポストモダンの典型的なイデオローグである点を中島さんは見逃している。

 東さんのデビュー作であるソルジェニーツィン論などを読むと,フランスにおいてポスト構造主義への批判者として出てきたヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)の影響を強く受けていることがわかる。新哲学派とは1970年代,ソルジェニーツィンの『収容所群島』に衝撃を受け,マルクス主義や社会主義への批判を展開した若手思想家たちのことである。

 では,『収容所群島』から,何が変わったというのだろうか。一言でいえば,ソヴィエト連邦の「収容所」が,単にスターリン時代の例外といったものではなく,マルクス主義そのものに根ざし,さらにはマルクス本人とその書物(『資本論』)に由来することだ。
 (中略)
 このような「新哲学派」のキャンペーンは功を奏して,七〇年代の後半になると,マルクス主義への信頼だけでなく,「六八年五月」への共感も,さらには革命的左翼への希望もすっかり消え去ってしまった。

 (岡本裕一朗『フランス現代思想史』中公新書p.214~p.215)

フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)/中央公論新社

¥880+税 Amazon.co.jp

 さらには,この左翼批判の流れに乗って発表され,知的世界に決定的な影響を与えたのが,リオタールの『ポストモダンの条件』(1979年)である。

 リオタールは,当時アメリカで流行していた文化概念「ポストモダン」を取り上げ,それに哲学的な定義を与えたのである。この概念はもともと,多様性や異種混合性などを特徴とした「ポストモダン建築」において使われていたが,リオタールは先進社会の知的状況をさす言葉へと拡大したわけである。
 (中略)
 リオタールがポストモダンを特徴づけるとき,「モダンの大きな物語は終わった」,と規定したのは有名な話であろう。このとき,モダンの「大きな物語」には,マルクス主義の原理(「労働者としての主体の解放」)も含まれている。したがって,リオタールのポストモダン論は,マルクス主義的な革命思想への葬送曲と理解することができるだろう。
 (中略)
 一般的には,ポストモダニズムと言えば,ドゥールーズの差異の哲学と親和的だと見なされている。ところが,ドゥールーズやガタリの受け取り方を考えると,むしろ「新哲学派」の流れで理解したほうがいいだろう。リオタールのポストモダン論は,「ソルジェニーツィン事件」以来続いてきた,マルクス主義・共産主義への批判,さらには革命的左翼思想への非難の一環として,理解されたわけである。

 (同書p.215~p.217)

 東さんは,このようなポストモダンのマルクス主義・左翼批判を受け継ぐとともに,次のような構造主義・ポスト構造主義の「反-人間主義」的な側面も取り込んでいる。

 フェリーとルノーによれば,構造主義とポスト構造主義の思想家たちは,「反-人間主義」の思想という点で一致していた。
 (中略)
 「六八年五月」は,人間やその主体,個人といった側面を否定しているどころか,むしろ積極的に肯定していたわけである。
 したがって,「六八年の思想」(ポスト構造主義)が「反-人間主義」を唱えていたとすれば,「六八年五月の出来事」をまったく誤解していたことになるだろう。フェリーとルノーにとって,「六八年五月」は,まさに人間主義の観点から理解されなくてはならない。

 (同書p.218~p.220)

 頭のいい東さんは,こういう構造主義・ポスト構造主義の思想と,ポストモダニズムとをうまく折衷する。つまり単純化して言えば,反-人間主義の立場から,マルクス主義などの人間主義的な思想や運動を批判しているといってよい。だからソ連・収容所国家の非人間性を確率論的な問題としてしかとらえられないし,それが監視社会や管理社会の肯定につながるわけである。その管理社会的な状況では,福祉は極小化され,自由や人権や民主主義は形骸化され,人間は非人間的な扱いを受ける(奴隷化=動物化!)。そういうディストピアが東さんの中ではユートピアに反転している。それが東さん的な脱構築の世界である。東さんの議論を見ていると,あらゆる肯定的な価値に否定的な診断をしたい欲求に駆られているように見えてならない。そのことは,人間存在そのものでさえ肯定できないところに最もよく表れている。

 ところで,標題の著書は,構造主義からポスト構造主義へ,さらにはそれ以後の展開を,大きな流れとして,素人にも大変わかりやすく解説してくれている。専門的な読者には物足りかもしれないが,フランス現代思想を通史として描いたものは意外にも少ないらしく,その意味では本書は貴重な見取り図になっている。だが,本書だけでフランス現代思想を理解したつもりになるのは著者の本意ではないだろうし,本書は通史を描きながら著者の解釈や評価も示されているので,一つの思想書と言えよう。というより,通史を描く作業そのものが一つの思想なのである。

 日本でも「ニューアカデミズム」と呼ばれてフランス現代思想が持てはやされた時期があり,私などはそのど真ん中の世代なのだが,フランス語が不得手であったことや経済学を専攻したこともあって,幸いにもその影響は最小限にしか受けなかった。本書でフランス現代思想が何を問題にし,何を問題にしてこなかったかが,ある程度,明らかになっている。私の主観的な受け止め方を言えば,どうしてもこのフランス現代思想によっては危機から脱出できないような気がしてならない。まして未来を構想することもできない。その一つの理由として,ファシズムや管理社会の問題をさまざまな角度から提起しているものの,それにどう対応していくのか,いかなる運動が可能なのかが全く見えてこないのである。むしろそういった現代社会の危機を温存する思想的な生ぬるさがあるように私には感じられる。思想としての厳しさがない。

 フーコー,ドゥールーズ,デリダらに代表される〈フランス現代思想〉は,「近代を問い直し,それとは別の可能性を構想する思想」(同書p.250)と教科書的には規定されるけれども,特にポスト構造主義になると,真に近代批判としての中身がほとんどない。まして近代の超克などは,あり得ない。要は,資本主義や国民国家を超えるような想像力や理念がないのである。資本や国家の野放図な動きを皮肉っぽく肯定するシニシズムに陥っているか,あるいは前衛的な芸術や文学のスタイルに埋没し自己陶酔しているか,のどちらかなのである。これはもはや思想ではない。ファッションと言った方がいいかもしれない。

 本書の著者は,フランス現代思想が熱狂的なブームを喚び起こした原因は,世界の見え方が変わる新しい概念・発想(コンセプト)を創り出したことにあるとし,そういうコンセプトを「思想のメガネ」と呼んでいる。〈フランス現代思想〉のそれぞれの思想家たちは,それぞれ独自の「思想のメガネ」を創造し,それを付けて世界を見るよう提唱した(本書p.252~p.253)。だが,「メガネ」は所詮メガネなのである。目そのものではない。目の構造から変えないと,真に認識も変わらないと思うし,世界も変えられないと思うわけである。

 比喩が多くて曖昧模糊とした意味不明な文章・書き方(エクリチュール)は,フランス現代思想のスタイルと割り切った方がいいと筆者は言っている。確かにスタイルが現代美術や現代詩のようで魅力的であることが,多くの読者を獲得した大きな要因なのだろうが,結局スタイルの奇抜さ・特異さだけが前面に出て,近代批判という中身が伴わないのである。特にポストモダニズムの流行にそのことがあてはまる。

 本書で描かれたフランス現代思想史を手がかりに東さんの立ち位置を考えると,東さんがポストモダニズムのイデオローグであることがはっきりする。つまりマルクス主義・左翼嫌いであり,資本主義の全肯定であり,人間性・自由・主体・個人の否定であり,民主主義への絶望・ニヒリズムなのである。そうした東さんの思想的な特質を見れば,中島さんのように東さんの積極的棄権論を「政治的抵抗の手段」と誉めそやすことなどできないはずである。それ(積極的棄権論)を認めることは,むしろ逆に抵抗の手段を個人から奪い,民主主義国家を収容所国家へと転変させる危険性を潜めているのである...。

郵便的不安たち# (朝日文庫)/東 浩紀

¥価格不明 Amazon.co.jp