映画「サーミの血」(@名古屋センチュリーシネマ) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

――北欧スウェーデン,知られざる迫害の歴史!
トナカイを放牧する美しいラップランドの大地に,サーミの歌が響く



 本当は寺山修司原作の「あゝ、荒野」や,ゲバラを題材にした「エルネスト」も観たかったのだが,私の場合,限られた時間と予算の中で観られる映画の数は限られてしまう。観たい映画すべてを観るわけにはいかない。また,すでに多くの人が観ていて評判が良かったり宣伝プロモーションがあり過ぎると,逆に観る気が失せてしまうという私の天邪鬼(あまのじゃく)な性格もあった。そこで今月は上の二本の映画は捨て,観るのを選んだのが標記の映画であった。

 当たりだった。素晴らしい映画だった。本当に観てよかった。というか,私にとっては観るべき映画,観なくてはいけない映画だった。観なかったら一生後悔するだろう,そう言えるような映画。星の数は無限大!まだ全国各地で上映しているようなので,是非とも多くの人に観てほしい。とは言っても,ときに目を覆いたいシーンもあり,全編にわたって重く苦しい映画。最後には打ちのめされて,観終わった後も胸に何か重石のようなものが残る感覚。ともかくも,いろいろな意味でショックを受け,考えさせられる映画だった。

 1930年代,スウェーデン北部でトナカイ遊牧を生業とするする先住民族のサーミ人は,劣った民族と看做され,家畜のような差別的な扱いを受けていた。トナカイ飼育業(サーミ人)の子どものための「移牧学校」が,映画の主な舞台。そこに通う主人公の少女は成績も良く進学を望んだが,教師から「あなたたちの脳は文明には適応できない」と告げられ,推薦状を書いてもらえない。

 私にとって一番衝撃的だったのは,移牧学校の一室にサーミの少女たちが集められて,身体測定ならぬ,骨格や頭・鼻・歯などのサイズ測定,写真撮影をするシーン。測定しているスウェーデン人が吐く「欠損なし」というセリフに胸を掻きむしられる。サーミの人たちを実験材料としか見ていないか,あるいはそれ以下の珍獣でも扱うような態度のスウェーデン人に怒りを覚える。同じ人間に対して,こんなに侮辱的なことをよくも平然とできるものだ。差別意識が内面化されてしまうと,こんなことも平気で行えるのだ。「福祉先進国」と言われるスウェーデンでも,ちょっと前まで公の場でこんなことが行われていた。決して他人事(ひとごと)ではないと感じる。

 いわゆる「人種生物学(racial biology)」(頭骨などの計測から人種の優劣を探る人類学)がサーミへの差別・迫害に大きく加担していたのを知った。すなわち,その人類学もどきの学問によってサーミは劣った特異な人種的特徴をもって生まれてくるものとされ,スウェーデン社会から分離・排除する政策がとられたのである。この移牧学校もそういう分離政策の重要な一環であった。言うまでもなく科学者の責任も極めて重い。

 この骨格測定のシーンを見て思い起こさずにいられなかったのは,研究材料として持ち去られたアイヌの遺骨問題である。アイヌの人たちもあのような非人間的な扱いを受けていたのだろうかと想像してしまう。もしかすると自分も本土のマジョリティ側として,あのスウェーデン人と同じようなことをしたかもしれないと思うと胸が苦しくなる。また,今なおヤマトンチュの差別意識の中で基地負担を強いられている沖縄の人たちにとっても他人事とは言えない話だと思った。それから,サーミであることを隠してスウェーデン社会に融け込み,恋や学問をしようとする少女の姿は,被差別部落出身の人とも重なり,胸が詰まった。「ラップ人は臭くて不潔だ」と陰口を叩かれるため,少女が川で何度も何度も身体を洗って臭くないかを確かめるシーンには本当に切なくなった。

 先ほども書いたように,この映画は決して遠い国の,遠い歴史の話ではないと思った。人種差別や民族差別,少数者への迫害・・・日本も他の国々も共通に抱える普遍的な問題であると同時に,その地域独自の問題でもある。

 自分の血や民族を否定しなければ,人間としての尊厳や自由を得られないとしたら,自分ならどうするか。主人公の少女は,民族のアイデンティティも故郷も家族も言葉も名前も捨てて,自由を手に入れようとした。少女の成長する姿だけを見て,手放しで祝福することはできないだろう。犠牲にしたものはあまりにも大きい。少女の表情ににじむ孤独や痛みがそれを物語っていた。近代化とはいったい何なのか,近代が獲得した自由や権利,個人などは本当に普遍的な価値を持つものなのだろうか。そんな根本的な疑念が頭をもたげてくる。

 血に抗い運命を切り拓いていく少女の姿と,民族差別という歴史の闇が,スクリーンで交錯する。そこに光は差し込んでいるだろうか。唯一,サーミの歌うヨイク(サーミの伝統音楽)に,オーロラのような美しい光を感じた。ラストシーン,鬼気迫る表情で岩山を登り,サーミたちの故郷ラップランドに立った白髪の老婆は何を見つめているのだろうか...。