中日新聞・夕刊で西舘好子という人が連載している「新・子守唄ものがたり」というコラムで,昨日,沖縄八重山の民謡・子守唄「月ぬ美(かい)しゃ」の歌詞が紹介されていました。
月ぬ美しゃ 十日三日
女童美しゃ 十七ツ
ほーいちょーが
東から上がりょる 大月ぬ夜
沖縄ん八重山ん 照ぃらしょうり
ほーいちょーが
女童美しゃ 十七ツ
ほーいちょーが
東から上がりょる 大月ぬ夜
沖縄ん八重山ん 照ぃらしょうり
ほーいちょーが
十三夜の月が17歳の若い女性にたとえられ,最も美しいと唄っています。沖縄の人たちは「娘には美しく育ってほしいという神への願いを,月に届けとばかりに海辺で歌うのです」と西舘さんは書かれています。月は沖縄の神として毎日,浜辺にやってきて寝ている子どもに祝福を与えると信じられてきたといいます。
昨日のコラムでは沖縄久高島の最大の祭祀「イザイホー」にも触れられていて,「争いをなくし,神の託宣を受けて村や一族を守護する巫女」を認定する祭事と紹介されていました。そして,そういう神女が家々にいるという仕組みが共同体を支えていた,とも書かれています。なお久高島でも,月は女親といわれ(太陽は男親),女たちの象徴と考えられています。
ちょっと前にこのブログで書きましたが,久高島の祭祀は女性を主体とし,母性原理にもとづくものでした。その母性原理とは,別の角度から見ると権威をつくらない仕組みでもあります。神女の守護力は,祖母・母親・孫娘の三代ごとに完結するとされ,その母性的守護は愛護,愛情という主体の純粋な心情(のみ)で成り立っているとされるからです。父系制のように何代にもわたって父祖を積み重ねて権威を生み出していく仕組みとは真逆です。権威を作らないことが母系社会の理想なのです。
ところで,比嘉康雄さんの本(『神々の古層②女が男を守るクニ』)によると,久高島では新生児の誕生祝いの祝詞には次のようなものがあるといいます。
あまりにたかすぎーねーねいびらんくぅとぅ,上半分下半分中とぅてぃたぼーりー
(「あまりえらくなってはいけない,中庸がよい」というほどの意)
(「あまりえらくなってはいけない,中庸がよい」というほどの意)
この祝詞は,絶海の孤島の長いなりわいから生まれた生きる知恵だと比嘉さんは評価しています。つまり久高人には決まった生き方があり,その形,価値観に沿って生きればよいのであって,はみ出したら不幸になると考えられていました。その決まった生き方とは,「女は神人,男は海人」にほかなりません。
こういう考え方は,職業選択の自由とか信教の自由といった近代的な価値観に慣れてしまった現代人から見れば,著しく時代遅れのものに映るでしょう。しかし本当に時代遅れのものでしょうか。この久高島の精神性や価値観を,近代的な価値尺度で一元的に裁断し,前近代的なものとして切り捨ててしまってよいでしょうか。特に上の祝詞に述べられている中庸という生き方,考え方は,現代人が忘れてしまった大切なものであるように思います。そういう土地や自然と結びついた精神の古層,磁場を失って現代人は右往左往しています。とかく日本人は右に左に極端に走りがちです。とりわけ昨今,目に付くのは右への傾斜,国家主義化,軍国主義化。それは日本会議の政治勢力拡大に典型的に表れているでしょう。日本人は極端に走って破局しました。歴史は形を変えて繰り返すのです。久高島の母性的文化はそのことを戒めているように思えます。
先ほども述べたように,父系をたどる祖先信仰は,家譜を作って祖先を権威化・美化する傾向があります。その最も極端な事例が神道であり天皇制でしょう。こういう父性原理によって権威化・一元化・差別化された社会ではなくて,これからは多元性・公平・平和を志向すべきだろうと思います。そういう未来を考える上で,久高島の精神の根底にある母系社会を拠り所とする思想,すなわち母性を基本とする〈権威を作らない中庸の世界〉は,今こそ顧みられるべき貴重な文化遺産ではないでしょうか。それは単に時代錯誤とか前近代的とか言って切り捨てられるようなものではなくて,未来を照らす豊かな精神文化なのです...
この母性原理の文化は、父性原理の文化がとどまることを知らず直進を続けて,破局の危うさを露呈している現代を考える大切な手がかりになるであろう。
(比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』p.5)
(比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』p.5)