沖縄在住のブロ友さんが記事で紹介されていたので,読まなければと思い,早速購入して読んでみた。読んだ感想を,率直に,思うまま書き連ねていこうと思う。
本書はその課題について,沖縄の基地問題を多面的・重層的に分析して,沖縄問題の本質を解き明かすとうたっているが,逆に沖縄の問題の本質がわかりにくくなってしまっているという印象を受けた。いわば経済的な論理一本槍で沖縄の社会構造を分析し,内部矛盾として格差とか貧困の問題を指摘しているのだが,そういう内部矛盾を生み出している根本は何か,という掘り下げた分析がないわけである。著者の一人の篠原氏は,基地問題は「問題の根っこではない」と言い(本書p.21),もう一人の著者である大久保氏は「日米両政府の安全保障政策」が根本的な原因であると言い(p.215),両著者のスタンスは微妙に異なるが,いずれにしても二人が強調するのは,沖縄の経済的な側面(カネとそこに纏わる利権)であり,そこに(のみ)読者の目を集中させようとしているように思える。筆者の筆は,日本政府およびアメリカ政府に対する批判には決して向かないのである。「日本政府と沖縄の指導層は共犯者だ」という形での批判や,「基地負担平等論」は日本も沖縄もアメリカにコントロールされている証だといった間接的な批判はあるのだが,正面からの権力批判はない。だから日米安保条約や日米地位協定の問題には深く踏み込もうとしない。また天皇制の問題も全く出てこない(集団自決問題を論じているときでさえ)。私には,根本の問題から目を背けようとしているとしか思えないのである。
こういう議論は,主流派の経済学者がよくするものだなあと思いながら読んでいたのだが,ネットで検索してみると著者の一人の篠原氏はやはり経済学者だった(大久保氏はジャーナリスト)。しかも財政学を専攻していたようで,おそらくはマネタリスト的な財政規律至上主義者であり,経済学者の中でも最もたちの悪いタイプに属する。おまけに大学の資金不正流用で前科があるようで,驚いた。よっぽどカネが好きで,カネに踊らされた人生のようだ。別に前科があるからといって偏見の目で見ているのではなくて,私は本書の中身と新自由主義的な経済学者の視点が一致していることを言いたいのである。たぶん経済学に詳しい人はこの本を読んでいないだろうから,こういう批判はあまり表に出ていないと思うが,私から見ると,市場原理主義の視点からの沖縄論(沖縄批判)である。例えば,筆者二人は結論としては辺野古移設に反対の立場なわけだが,その理由は税金の無駄遣いになるからというものである。本書を通読すると,沖縄のさまざまな問題がすべて経済論理,市場原理のみを基準にして批判されているのがわかる。沖縄社会に格差や貧困が蔓延るのは,企業の自由な経済活動や市場競争を阻む公務員優位の社会構造や巨額な沖縄振興予算があるからだと筆者は言いたいわけである。
こういう本書の議論を読んでいると,新自由主義の元祖フリードマンが同じような論理で徴兵制に反対していたことを思い出す。つまり,徴兵制というのは個人の職業選択の自由を奪うもので,軍隊も効率的に機能しないから廃止し,カネを払って志願兵を雇うべきだ,というものである。だからフリードマンにとっては,徴兵制反対は戦争反対とは結びつかない。あくまで経済性の論理である。むしろフリードマンの徴兵制反対の意図は,若者のベトナム戦争反対運動を鎮めるところにあった。こういう新自由主義的な観点からの徴兵制反対論にしても基地反対論にしても,基本は経済の論理で貫かれており,だから本気で戦争や基地に反対するものではなく,それは往々にしてマッチョな歴史修正主義と結びつき,ナイーブな天皇主義になる。経済を政治と切り離して,歴史や個人を軽視する,経済論理プロパーだから,必然的にそうなる。新自由主義は,国家主義やファシズムが興るのに都合のよい条件を与えるのだ。
本書は,全体を通じて次のような方法論に対する信念に貫かれている。いかにも経済学者らしい態度である。
絶対化からは隷従が,相対化からは自由が生まれる。それは冒険知(相対知)です。新しいものを生みだすための,ひとつの有効なアプローチです。(本書p.198~p.199)
私が最初に述べた「本質が見えなくなる」というのは,この相対化のアプローチと深く関わっている。例えば,沖縄の基地を全国どこにでもある基地として相対化してしまって,基地問題の本質を見えなくしてしまっているのである。そして結局こういう相対化の議論が,本土の右翼・民族主義者らによって絶対化され,排他的なヘイトや差別につながってしまうのであれば,もはや意味がないだろう。大切なのは,どこに本質的な問題があるかを見抜く視点であり,何でもかんでも相対化してしまえば真実が見えてくるというものではない。しかし筆者は,こういう闇雲な相対化を学問的で客観的な態度だと履き違えているのだろう。沖縄の「心」や「願い」に寄り添うことを拒否し,いわゆる方法的個人主義(要は人間を機械の歯車としてしか見ない)の立場に立って理論構成することによってこそ「沖縄の本当の姿」が見えてくると勘違いしているわけである。先にも言ったように,これは経済学者によくある勘違いというか,かなり犯罪的な誤りである。今の日本の絶望的な格差社会が新自由主義的な経済政策(小泉・竹中の構造改革!)の結果,生み出されたものであることは言うまでもないだろう。
本書のような相対化の議論が,近年俄に激しくなっている本土のナショナリズムに格好の言質をあたえることになるということに,筆者は気づかないのだろうか。いや,むしろ「確信犯」なのかもしれない。本書では,「日本ナショナリズムvs.沖縄ナショナリズム」という排他的ナショナリズム同士の対立という事態が進行しつつあることに懸念を示しているが,しかし,そういう懸念とは反対に,本書のような議論がこういう深刻な対立を煽り助長する結果になることは目に見えているのではないか。本書に何だか悪意めいたものを感じるのは,その点である。本書には,日本の民族主義者やレイシストが飛びつきそうなネタが満載だからである。
私が偉そうに言える立場ではないけれども,本書で描かれている沖縄像は,確かに沖縄の一面を照らしているのだろうとは思う。全否定するつもりはないし,謙虚に受け止めなければいけない部分もあるように思う。特に沖縄経済の補助金依存体質や沖縄メディアのあり方などは,誇張されている部分はあるとはいえ,今後の自立に向けた重要な指摘であろう。しかし,構造的な沖縄差別や日本の植民地主義を全否定し,沖縄自身の責任を強調する本書の議論は,沖縄問題の本質を覆い隠す悪質さを潜めているように思えてならない。
米軍基地の偏在の責任を「日本」あるい米国という「外部」にのみ求める主張は,沖縄内部の問題や矛盾に対する沖縄自身の責任を放棄するのと同じことです。基地がなくなるだけでは,経済はけっして豊かになりません。社会的な歪みも解消されません。基地がなくなればバラ色の社会が訪れる,という宣伝は県民世論を完全にミスリードしています。(本書p.204)
基地がなくなれば,すべての問題が解決されると考えているお花畑の沖縄県民などいるのだろうか。こういうおかしな言説を吐く本書こそ,読者をミスリードしていると思われる。基地問題を,沖縄が抱える数々の問題のうちの一つにすぎないと考える姿勢が,いかに間違った政策を生み出すかは想像に難くない。それは沖縄の自己責任論に結びつき,振興予算は削減される。そして生み出されるのは,偏狭なナショナリズムやレイシズムだけであろう。日本およびアメリカ政府の権力構造には目を塞ぎ,天皇制や戦争の歴史を等閑にする,こういう経済論理オンリーの議論は,今の安倍政権のやり方とダブってさえ見える。つまり,選挙ではアベノミクスという経済政策だけを詐欺的にアピールして,安全保障政策や社会保障削減など国民の命や生活に関わる重要問題にはふたをする。なんかこの二人の著者(特に篠原氏)は安倍政権の回し者ではないかと思えてしまう。まあ,いずれにしても御用学者,御用ジャーナリストになる素養は十分備えていることは間違いないけれども。
もっと個別の論点でも本書の議論を粉砕したいのだが,あいにく時間がなくて細かいデータが手に入らず,それに私のような無名のアホが批判をしてもほとんど意味がなかろうと思うので,本書で批判の対象にされていた高橋哲哉さんや野村浩也さんには是非本書への批判を出してもらいたいなと思う(もしかするともう出ているのかもしれないが…)。ネットなどで本書の書評を見ると,比較的好意的なものが多くて驚かされる(ネトウヨ言論)。批判的書評も,正面からの本質的なものではなかった。下に挙げた佐藤優の篠原氏への批判も,心情的にはわかるが,残念ながら本質的なものではない。
沖縄の不都合な真実 (新潮新書)/新潮社

発売日:2015/1/20
¥799 Amazon.co.jp