狭山事件・高裁前アピール行動 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…



 昨日は,少し時間が空いたので朝,新幹線に乗って,狭山事件の高裁前アピール行動に行ってきました。それから,30日の国会包囲デモには行けないので,帰りは高裁から国会前まで歩いて行き,一人国会包囲をやって無事帰ってきました。

 久しぶりに拝見する石川さんは少しお痩せになったかなという印象でしたが(聞けば体重は40kgに減ったとのこと),しかし証拠開示や事実調べを訴える声には力強さと,裁判所・検察(=国家権力)に対する怒りが漲っていました。「何が真実かは亡くなった被害者が一番よく知っている」という石川さんの最後の言葉は,実際に手をかけた人間(加害者)が言える言葉ではありません。一体検察はいつまで証拠を隠し続け,裁判所はいつまで事実調べをせずに再審決定をしないつもりなのか。昨日は,警察が自ら万年筆を置いてでっち上げた鴨居が展示されていましたが,石川さんを犯人とする合理的証拠がほとんどない,この事件で,これ以上再審を拒み続けるというのは,自ら国家権力によるフレームアップを認めているのも同然ではないだろうか。もし100人の市民が検察審議会のような制度でこの事件を審査すれば,おそらく99.99…人が再審を支持するでしょう。


 被差別部落出身者への差別意識・偏見・予断に基づいた差別捜査,差別裁判がこの冤罪事件を引き起こしました。司法を行うのも人間であるなら,石川さんの心の叫びに耳を傾け,一刻も早く再審決定の判断を下すべきです。そして,差別による司法行為の大きな歪みを自ら正すべきだ。その人間としての心と勇気を日本の司法に望みます。

 昨日は足利事件の管家さんや解放同盟の組坂委員長をはじめ,多くの方が連帯アピールに来てらっしゃいました。こうした声が全国に広がり,狭山事件の真実を全国民が共有する日が来ることを願ってやみません。狭山事件は,日本の司法の問題であるとともに,差別を温存した日本社会の問題でもあるのですから。


 晩年,狭山事件に全精力を注ぎ込んだ作家の野間宏が,「私が死ぬのが先か,無実の判決が出るのが先か,どちらかだね」と言っていましたが,その野間さんが亡くなって,もう25年が経ちます。野間さんの死後,石川さんが「仮出獄」した後も証拠開示や事実調べは遅々として進まず,再審決定は実現しないまま今に至っています。石川さんは今も見えない手錠につながれたままです。

 野間さんの「狭山裁判」関連のものを読み漁って,狭山事件が差別事件であり冤罪であることを確信していった若い頃の私は,まさか2010年代になるまで狭山事件の無罪判決を聞けないとは夢にも思いませんでした。確かに国家権力を甘く見ていたのかもしれません。もう私も完全におっさんと呼ばれるような年代に突入したわけですが,しかし状況は厳しくとも,真実はいつか明らかになると信じています。その日が来たら,天国の野間さんは「当然のことです」と言うに違いないでしょう。日本というのは,まだこの「当然のこと」が成り立たない理不尽な社会なのですね。そのことを私たちは認識し,「当然のこと」(=証拠開示・事実調べ・再審決定)を実現しないと,と思うわけです。

 それにしても,最近は歳を食ったせいか,時の移ろいに感じ入ることが多いです。昨日親切にも話しかけてきてくれた女性は,3年前にこの高裁前でもらったチラシがきっかけで狭山事件のことを知り,これは大変な事件だということで支援活動を始めたそうです。お名前を聞くのを忘れてしまったのですが,野間さんや小田さんや沖浦さんらの世代がいなくなった後も,そういう新しい世代がしっかりと運動と精神を引き継いでいることを知り,頼もしさと時の流れを感じた次第です。ちょうど似たようなことを野間さんが書かれているのを思い出したので,最後にそれを書き留めておきたいと思います。狭山を自分自身の問題として受け止め,それによって日本全体のことも考えていってほしいということでしょうか。


 さいわいにして,『狭山裁判』は多くの読者の手に渡っていった。それはいまも読まれ続けている。それは私の予測していたところをはるかに越えたところに達している。・・・先日街へ出て行き,ある飲み屋の入口のところで一人の青年に出会い,『狭山裁判』を読んだことを告げられた。
 この青年は,このような裁判が進められていることを知って,このまま放っておくことはできないという考えが,強く動き出し,『狭山裁判』を友人たちに廻し読みし,いま,五人目のところにそれは行っていると彼は私に言った。・・・
 (中略)
 ・・・私はその青年に有難うと言い,私の『狭山裁判』ですませるのではなく,自分自身で,できるならば,裁判記録に眼を通し,また狭山の現地に出かけて行き,被差別部落を訪ね,狭山裁判を,自身の新しい眼でとらえ直すところにいってもらいたいという意味のことを,言った。そうします,時間をつくりだして,と青年は言った。友人たちに,そのように伝えますと彼はさらに言い,去って行った。

 (「狭山裁判とわが小説」,『野間宏作品集13』p.214~p.215)