少し冷静になって集団的自衛権について考えようと思い,今日2本目の投稿である(珍しい)。掲題の本は,タイトルこそ挑発的だが,頗る冷静に国際情勢を見定め,その中で日本の集団的自衛権行使の意味や影響などについて考察している。国際紛争の現場に身を置く紛争処理のプロ,自称「紛争屋」という自己紹介からして,もっと乱暴で過激な内容かと思ったが,実際読んでみると努めて冷静で,プラクティカルな現実に即した態度・判断が,目を引く。そして,その根底には,日本の,そして世界の平和について日本人一人ひとりがしっかりと自分の頭で考えてほしいという筆者の思いが流れているように思った。とりわけ,集団的自衛権をめぐって日本は今,何をすべきなのか,何をしてはいけないのか,について考える上で必須の論点を,本書は提供してくれている。集団的自衛権が抱える問題点はここにすべて網羅されているといってよいのではなかろうか。集団的自衛権についての初歩的な知識から世界の紛争の現状まで丁寧に,変なバイアスをかけずに解説してくれていて,マスコミやネットなどの情報だけでは絶対に分からない問題の本質を明らかにしているように思った。
いろんな論点がある中で,一つだけ間違いなく言えることは,集団的自衛権の行使容認によって,日本と日本人を取り巻く環境は激変するということである。これまでのいかなる外交問題,国際問題よりも,私たちの生活に直結する形で影響がある。だから,先ほど書いたように,私たちはこの問題について真剣に考え,議論する必要があるのである。
私たちが注意して考えなければならない根本的問題は,いったい集団的自衛権の行使は日本の安全を確保することにつながるのか,日本の平和と安全にとって集団的自衛権の行使は必要なのか,という点であろう。そのことを考える場合,そもそもアメリカは日本に集団的自衛権の行使を求めているのか,という点をおさえる必要がある。安倍首相が「日米同盟を堂々たる双務性にしていくこと」(つまりアメリカに対して同等の武力で協力すること)を求めているのに対して,アメリカはその意味での双務性を本当に望んでいるのか。
その覇権の維持のための海外拠点として最大のものであり,在日米軍基地の運用において,自らの主権さえ放棄してくれる日本は,アメリカにとっては,もはや,「集団的自衛権」の同盟国ではなく,単に,アメリカ自身の「個別的自衛権」の道具の一つでしかないのです。
だから,アメリカから日米同盟を解消することは,アメリカから日本を見放すことは,特に中国の存在が,地球を良い意味でも悪い意味でも支配する現在,そして近未来において,絶対にありえません。
(伊勢崎賢治『日本人は人を殺しに行くのか』朝日新書p.120)
逆にアメリカは今,日本の戦争に巻き込まれたくないと思っている。結局のところ,日本の集団的自衛権の行使容認問題というのは「日本側の叶わぬ片思い」のようなもので,日本はアメリカが欲していないものまで貢ごうとしているということである。アメリカは「恫喝外交」によって日本からお金を引き出したいだけのことであって,その意味で日本はいいカモなわけである。
筆者によれば,このようにアメリとの双務性を求め,アメリカに軍事的に協力する姿勢を鮮明にすることで,アフガンやイラクにおける「美しき誤解」,つまり〈日本はアメリカから完全に独立しており,アメリカによる被害者である〉というイメージがリセットされてしまう。これまでは,そのような良いイメージを持たれることで,日本はアフガンでの武装解除やイラクでの治安維持活動を遂行できた。イラクでは「日本人を攻撃することは反イスラム」とのおふれさえ出されていたという。そのイメージが集団的自衛権行使容認の決定によって覆された。その象徴的事件が今年初めのイスラム国による日本人人質事件であろう。日本はアメリカの軍事的同盟国として,イスラムやタリバンから攻撃対象となってしまったのである。解かなくてもいい「美しい誤解」が解かれてしまったのだ。
本書を読むと,集団的自衛権の行使容認が日本の安全を確保するどころか,アメリカ以外の世界の信用を失って,日本をますます危険な領域に押しやっていることがわかる。さまざまな紛争地で経験を積んできた人ならではの視点で,説得力のある議論だった。また,政権側が集団的自衛権を行使して対応する必要があるとする15事例についても,ほとんどが個別的自衛権で対応でき,集団的自衛権の行使容認をすべき理由になるものが一つも含まれていないことが暴露されている。さらに日本が抱える領土問題についても,集団的自衛権の行使によって解決できるものは一つもない。要は,集団的自衛権の行使容認が日本にとって何の利益も生まないこと,安倍首相の集団的自衛権行使論議がいかに稚拙なものであるかが,国際政治,国際紛争の現実に即して明らかにされている。その点が,ほかにはない本書の大きな特徴であろう。当然のことではあるが,集団的自衛権の問題について考える場合,それをちゃんと国際関係の中で位置づけた上で,その是非を判断する必要がある。その意味で,本書は集団的自衛権の入門書であるとともに,国際関係や外交問題を見る上でも良い入門書になっている。
では,イラクでもアフガンでも失敗したNATOとアメリカの集団的自衛権の行使に代わって,紛争地域に平和と安全をもたらすには何が必要か。そして日本は何ができるのか,何をすべきなのか。筆者は,そのヒントは,イラン戦争の泥沼化の中で米軍の戦略ドクトリンを転換させたCOINという対テロ戦マニュアルにあるという。それの戦略目標は,簡単に言えば「ウィニング・ザ・ウォー」(敵を軍事的にやっつける)ではなく,「ウィニング・ザ・ピープル」(人心掌握戦に勝つ)ということである。そのためには,優良な国軍と公平な警察を中心に「秩序」を形成し,人民が安心してネーション(国家)に帰依できる「政府」をつくる。対テロ戦の闘い方は,これしかない,と筆者は言う。
このCOINという戦略の中で,日本の役割はどこに見いだせるか。筆者は,日本は今こそ「日本版COIN」を掲げて,国際貢献をすべきだと訴える。このあたりの主張が本書の白眉をなす。
では,アメリカの国益になりながら,同時に日本が世界に貢献できる最上の方法とはなにか?
(中略)
私たちはまず,アフガンとイラクに対し,・・・日本がどんな損害を与えてきたのか?それと同時に,何がどれだけ役に立ってきたのか?の総括を,きちんと国民全体を巻き込む形で討議すべきです。
その上で,武力を前提にしない――非武装が原則だからこそできる――自衛隊の「補完力」と,相手の懐に入り込んでいくことのできる「親和性」を全面に押し出したジャパンCOINを,日本の政策ドクトリンとして生み出すのです。それが,真の世界貢献と主体性獲得への第一歩になります。そのためには,安倍政権の言う「集団的自衛権の行使」など,一切必要なものではありません。日本はアフガンにおいて,内政干渉だと反発されることなく行政改革を行い,民衆に信頼される"ネーション"を打ち立てることができるはずです。それは,アメリカを中心に,西洋社会がおしなべて苦手としていることです。
その視点に立つからこそ私は,ここで,安倍政権だけでなく,正反対の護憲派に対しても,あえて挑戦的に宣言したいと思うのです。
アメリカが試行錯誤し続けるCOIN戦略の中で,日本が行うべきことは,「武力を使わない集団的自衛権の行使」である,と。
(前掲書p.139~p.141)
さらに筆者は,国連のPKO活動が極めて好戦化していること(住民保護を名目にした武力の積極的行使)を,コンゴやリビア,南スーダンなどを例に挙げて紹介している。そういうPKO活動の危険な現状を閑却して,「PKOは国際協力だから」と甘っちょろい見立てをしている日本の政府に対して,筆者は容赦ない批判を突きつける。事態は逼迫しているのだ。このまま安易にPKOへの参加や集団的自衛権の行使のために自衛隊を海外へ派遣していけば,いずれ自衛隊は人を殺すことを任務にするようになる,と。
安保法制懇が2回目の報告書で出してきた,「国連の集団安全保障措置は,我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらない」などとする見方は,激変する国連PKOの姿と9条との整合性を完全に見誤っています。
その程度の認識で集団的自衛権の行使を容認し,自衛隊をPKOの本体業務に送り込んでいたら,いつか自衛隊が大規模な戦闘に巻き込まれるという事態に陥ってしまうことでしょう。いや,「いつか」などという曖昧な表現は適切ではありません。実際,海外に派遣されている自衛隊はすでに,いつ戦闘に巻き込まれてもおかしくないところまできています。それほどに,現在の南スーダンの状況は逼迫してきているのです。
(前掲書p.234~p.235)
最後に,筆者の9条に対する見方を紹介しておきたい。これが,数々の紛争現場を見,武装解除などの紛争処理をやってきた人が得た見識なのである。
また9条は,より攻撃的なグングニルでもあるのです。グングニルとは,北欧神話の主神オーディンが持つ槍のことです。狙った的を射そこなうことは決してなく,この槍を持った軍勢には必ず勝利がもたらされる,とされています。
なぜ,9条はグングニルだと言えるのか?それは,私自身が,アフガニスタンで武装解除の任務遂行中に,憲法9条を武器にすることで,ネゴシエーション(交渉)の成果をあげた経験があるからです。
(中略)
こうして日本は,アメリカのCOINにおいて,最難関であった国防総省改革と武装解除に成功しました。これは,9条を武器にした日本がアメリカと世界に対して「大きな主体性」を発揮できた,分かりやすい実例だと思います。9条は世界との交渉の場において,「支援を行う代わりに日本が口を出す」ことを可能にしてくれる,強力な武器でもあるのです。ここで考えていただきたいのは,これまで,かすかに発揮できていた日本の「主体性」は,何によって保たれていたのか,ということです。
確かに自衛隊の活動範囲が広がってきており,9条の文面と現実の乖離は,埋めようがありません。その意味で9条は,"いつかは",変えられなければならない時がくるのでしょう。でも,9条を変える決定を下すその前に,日本がinsurgents(テロリスト)と対峙し,交渉していく際の「グングニル」として,9条を使っていくというのはいかがでしょうか?
(前掲書p.244~p.247)
自称「紛争屋」,つまり紛争を生活の糧にしている人から,最後に9条の積極的意義を聞けるとは思いもよらなかった。いや,紛争の現場に身を置いていたからこそ,私たちより9条の大切さやそれを生かす道を身体で掴み取ってきたのかもしれない。本書で語られた,紛争現場からしか見えてこないものを,紛争現場に身を置かない私たちはしっかりと受け止めて,自分たち自身が戦争と平和にをついて考える上での糧にしていかなければならないと思う。その意味で,本書に書かれた筆者の経験やそれに基づいた意見・提言は貴重である。私も,日本は9条を武器にした国際貢献の道を探っていくべきだと思う。その具体的な方法をいくつか本書で学んだ。9条を捨て,集団的自衛権を行使することで,日本はアメリカの信用だけは確保できたとしても(そう日本が勘違いしているだけなのだが),国際的な信用は地に堕ち,国際貢献の選択肢も実は軍事以外は大きく制約されてしまうだろう。本書全体を読んで今まで以上にはっきりと確信したのは,集団的自衛権行使やそれを可能にする安保法制は,日本を平和から遠ざけ,戦争に近づけるだけだということである。
[付記]
明日(8/27),お腹の調子さえよければ,東京高裁前アピール(狭山裁判)に行ってきます。なので,今日から明日にかけては皆さんのブログに伺えないかもしれません。すみませんが,よろしくお願いします。
日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門 (朝日新書)/朝日新聞出版

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