きだみのる「気違い部落周游紀行」をやっとのことで読み終えた。何しろ,きだ独特の文体や言い回し,部落言葉に慣れるのに一苦労で,さらにはヨーロッパの古典的教養やフランス的知性がふんだんに散りばめられているものだから面喰らったり,あるいは目から鱗だったりと,普段の読書ではなかなか味わえない貴重な体験をした。例えば,「弁証法」を部落流に解釈すればこんな感じになるという。
ディアレクチカは説得の技術を指す文字で,起源にはギリシャ語(「会話する」)を持っている。日本語ではこれを弁証法と普通訳されている。
村の語彙にそんな舶来語あるいは新造語は存在しない。英雄たちが幼い時から習い覚えた祖先伝来の言葉の中にディアレクチカに当るような,あるいは翻訳するとすれば,そうとしか訳せないような用語をさがすとすれば,村言葉に関する私の知識では「いい負かし」という言葉しか見つからない。
この二語の接近について,あるいはこういう古典学者があるかも知れない。いい負かしの中には話して物のあるいは事の道理を納得させることを原意とするディアレクチカが含む以上に戦闘的な,あるいは勝敗の賭の要素を含み過ぎていると。これにはいささか一理あるが,だが私はこれに対してはこう答えよう。
今日,使用を受けている限りではディアレクチカは諸々のイデオロの理論あるいは偏見の整備装甲・・・に専らで,何か他流あるいは異派との仕合に使う打ち込みの秘法のような印象を与えられていて,いい負かしと大して違っていないように思うのは私一人ではあるまいと。
(中略)
・・・こうして討論は,ある視野から取り上げた事実を論理的に並べ,追求する精神の競技に構成されないのだ。各自は各自の所論をわが身の一部と感じ,それを愛着と名誉を以って包み,いい負かされるのは万人の上にあって人間の理解を支配する理性に従うことを求められているのであるということを考えないのである。それは何かしら屈辱を感じさせ,かくて乱闘ということなるのであろう。
だが,よく考えてみると,いい負かしっこの最後が喧嘩乱闘になるのは,イデオロの争いの後に戦争が来るのにいささか似ているといっても過言とはいえまい。あるいはそれも一つのディアレクチカの一法であるといえなくもないであろう。
(きだみのる「気違い部落周游紀行」,『土とふるさとの文学全集①』p.293~p.294)
この「いい負かし」の事例がいくつか紹介されていて,なかなか面白かった。なるほど弁証法とは「いい負かし」のことだったのか,と思わず目を開かれる。このきだの著作を若い頃に読んでいれば,ちょっと違った世界観が開けたかもしれないな,と思ったりもした。
デュルケム社会学を本場で勉強するなどして身に付けたであろうヨーロッパ(フランス)的教養と,日本の最底辺をなす部落の生活慣習との遭遇――この点に本書の魅力があると思う。日本の村落風俗を文明論的に一刀両断しつつも,他方でヨーロッパ的な文明・概念を部落の言葉でもって咀嚼し再検討を加えてもいる。ヨーロッパ的知性と部落的野蛮との相互交通が本当に面白い。きだにおいて,その両者の接近を媒介するものは,人間というものに対する理解,人間のどうしようもない性質(エゴ)への深い洞察である。
我々はこう疑ってもよいだろう。人間は一番人間的である動物であるかどうか。(上掲書p.316)
正義とは自分の利益の擁護のための羽根飾りのようなものである。・・・いったい正義とかその他これに類する言葉は,一般に自己の利益を守るため他を排撃する道具ではないかと思われるような使用を受けている場合が多く,自らの損失において正義を云々する例は滅多にないように思うのは私の無学のせいであろうか。(上掲書p.321)
人は人生の繰り返しと退屈とを背負うて行くには,他に勝れたところを自己のうちに見出さずには出来ない生物のように観察される。幸にしてあるいは不幸にして,人はすべて巧言令色の徒のうち,最もその技に長じた自尊心を多少とも身に体して生れているので,それに依頼すれば,人間は何等かの点で自己の優越性を明かに確認し,そこに至大の喜悦と生き甲斐と名づけられる人生の意味ないしは充実した人生の味を味わえる仕組になっている。(上掲書p.320)
日本人以前的であるということこそ,もしそれが動物的にまで烈しい生活への意慾ということを指すなら,今日の日本にとっては何よりものことではあるまいか。日本人以前的なものが日本人になかったら,今日我々は一体何が出来るであろうか。理解に困難である。これは現在の崩れつつあるものの下で新しい生命を恢復するたった一つの力である。文化の表面に浮ぶものは常に散る花だ。新しい蕾は潜んだエネルギーから次々に咲いてくるのだ。(上掲書p.368)
こうした人間の普遍性理解から,きだはこう結論づけている。
条件を変えれば,これはあなたのことです。
前にも書いたと思うが,このきだの部落論は日本社会の基底を解剖するものであり,その意味で,きだが問題にしたのは日本人と日本社会であった。私が,本書での回りくどい高邁な知的教養に振り回され戸惑うことも少なからずありながら,それでも読んだ後,非常に爽やかな感じを受けたのは,今の経済学者とか社会学者,政治学者などが書くものにない,社会と人間に対するとらまえ方のユニークさ,切り込みの鮮やかさがあったからだろうと思う。今のインテリは,きだの言う「よそ行きの面」しか見ていない。
村はヤヌスのように二つの面(ペルソナ),を持っている。よそ行きの着物を着たときの面と平常(ふだん)のぼろ着を着た面と。使う用語との関係からいえば,普通語は前者に,村言葉は後者に対応している。偉い連中に対して村の示す面は普通語で呼び起こされるよそ行きの面である。この面を通じて平常着(ふだんぎ)の面の理解は出来ない。(上掲書p.367)
「よそ行きの面」しか見ず,「平常着の面」を見ようとしないから,私たち市民の感覚とはどこかズレていて,肝心のところで私たちの生活を理解できないのだろう。つまり,今のインテリとか学者連中にとっては,先ず先に既成のイデオロギーや理論,方程式があって,その装置を通して私たちの生活や習慣を見る方法しか知らない。理論やイデオロギーも大切なのだが,それらが単なる既成の舶来品としてあるのではなく,私たちの生活現実との頻繁な往来を通じて自前の概念装置に鍛え上げられねばならないだろう。その一つの方法を,きだの「気違い部落」は示してくれたように思う。
我々市民にとって見せて貰いたい大事なことは保守,社会,共産の尖鋭な理論でなく,それらイデオロ下の生活の見本であるように思う。(上掲書p.293)
部落の生活はずっと続くのだから,部落の生活を基本として考える方が農民組合を中心として考えるより正しいといえよう。イデオロが生活の上位に置かれるのは,何か封建的儒学的なものが感ぜられるように思われる。(上掲書p.345)
きだの「気違い部落」を読んでいて絶えず胸に問わずにはいられなかったのは,登場する部落の「英雄」たちが私たちの心の中に巣くってはいないかということである。そして,部落という小集団は,現代に生きる私たちとは関係のない過去の,特殊なムラ社会では決してなくて,それはリトル日本ではあるまいか,と思わざるを得ない記述に何度も出会ったのである。
話を聞いてみると村の有力者はほとんど大半,過去においてちょぼいちか高利貸か闇屋をやって儲けた連中である。
これは私のような書斎人には驚いても不思議のないことのように思われる。働く英雄たちは村の有力者ではなく,働かない英雄たちが働く英雄たちをへいげいしているのだ。もっとも考えてみると,金融や権力が産業を搾取して自らを肥しているのは何もこの村だけのことに限らないようにも思われる。(上掲書p.350)
〔追記〕2014.5.28 8:00:00
※きだみのるの著作には,今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現がありますが,時代的背景,作者の意図,作品の価値に鑑み,引用はそのままにしました。また,ここで取り上げられている部落は被差別部落とは直接の関係はありません。
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