21世紀への遺言~加藤周一の発言より~ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 ここに加藤周一の発言を引くのは,加藤が優れた評論家・思想家であるからというのではなく,「戦後」を再検証し,21世紀を切り開く一つの材料になれば,という思いからである。以下の引用は,すべて『二〇世紀の自画像』(ちくま新書)から。


〈近代の超克〉
 近代のいろいろな欠点が出てきて,それを克服して未来の社会を築くためには,近代を通過する必要があるわけです。行き詰まったからといって,かき消すように過去が消えるんじゃない。お化けじゃないんだからね。近代というのはそう簡単には消えない。だからそれを通って超えなきゃならない。近代が行き詰まったら近代以前の社会が,出てきて助けてくれるか。そんなべらぼうなことはない。
 (中略)
 これは左翼の人もある程度責任があると思います。ブルジョア思想とか近代思想,すなわちジョン・スチュアート・ミルであり,アレクシスト・ド・トクヴィルですね。トクヴィル的,ミル的近代というのを明治の初めにちょっとかじった。そのうち左翼が台頭して,それをマルクス主義的な立場から木っ端微塵にやっつけて,ブルジョア思想はだめだということにしてしまった。その後が単なるホラ吹きです。京都学派にしても,文学界にしても,日本浪漫派にしても。
(p.41~p.42)


〈戦争〉
 きれいでやさしいものを踏みにじる権力は野蛮だ。小さく美しいものを愛して,戦争賛成というのは筋が通らない。そういう人たちに対して私のなかに怒りがあった。戦争は生命だけでなく,人間の生活の美しい愛情,弱い人とか小さな花へのやさしい感情を壊す。理性も知的な誠実さも壊す。だから戦争はだめ,というのが私の考えです。(p.34)


〈憲法〉
 なぜそれほど憲法にこだわるのかというと,戦争の経験があるからでしょう。友だちが死んだので,友だちを殺した者に対して,どういう態度をとるかということがある。殺したのは戦争です。死んだ友だちがもし,魂があって見ていたら,見ているとは思いませんけどね,彼らから見て,「あいつはたまたま生き延びて,俺たちを殺した勢力の側についている」ということになりたくないのです。
 戦争を支持するのは,友だちに対する裏切りじゃないか,という感じがある。彼らが生きてたら反対するであろうことに,気軽に賛成するわけにはいかない。だから憲法にこだわるのです。
(p.99~p.100)


〈知識人の責任〉
 憲法の九条が問題になっているとき,黙っていれば,黙っていることの責任をとらなければならない。
 黙っていることは発言です。それは重要じゃないと言っていることでしょう。重要なことから書くはずです。・・・
 そどれでは何がいちばん大事なことかというと,・・・一年に一回も,憲法のことを書かないのはちょっと無責任だろうと思う。文士だったら書いて戦うべきです。もし憲法を守りたいならば。
 守りたくなければ,私とは反対の立場ですが,必ずしも無責任だとは思わない。ただ意見の違いがあるだけです。しかし黙ってやり過ごすには,事が重大すぎるでしょう。だれもがマスメディアを利用できるわけではない。利用できる人が黙っているというのは,利用できない人が黙っているということと全然別の意味だと思う。
(p.100~p.101)


〈戦車と言葉〉
 プラハにソ連の率いる軍隊が入ってきて,戦車隊が市の真ん中ににいる。だけどなぜいるのかは,言葉でなければ言えない。戦車は言葉を必要とするわけで,言葉から逃げることはできない。もし逃げれば,無意味で,残酷なだけになってしまう。しかし力がなければ,ソ連の戦車を食い止めることはできない。・・・
 そういう展開を言葉だけでは防げない。必ずしも戦車じゃなくて,たとえば労働組合がストライキをするとか,実際の行動による抵抗がない限りは,それは防ぐことはできないんですね。だから国内の改革にしても,国際的なものにしても,現実を変えるには力が必要です。究極的には戦車が必要です。言葉だけでは戦車を防ぐことはできないし,止めることはできない。言葉は戦車に対して無力。しかし戦車は言葉に対して無力なので,自分自身を正当化することはできないんです。
 言葉と戦車は相互に絶対的な依存関係にあるわけです。
(p.67)


〈ナショナリズム〉
 重大な現代史の問題はナショナリズムと深くからんでいます。合理的,マックナマラ(ベトナム戦争当時の米国防長官)的,帝国主義者たちは,みんなそれを過小評価して失敗しました。ナショナリズムは滅びない。ナショナリズムをないことにして他の理屈をつけて戦争をしても,現実離れしていくと思うんですね。その巨大な例が中国革命とベトナム戦争です。
 (中略)
 日本の場合も例外ではありません。ある形で外国人が日本を支配しようとすれば,それは強い反発を受けます。どうして反日なんだろうと言っても,どうしてじゃなくて,そこにナショナリズムがあるからです。それを侵せば,非常に強硬な感情的な基盤を持った大衆の反撃に遭うわけです。
 いまアメリカも世界中で大衆の反撃に遭っている。アメリカがアラブ全体をいくら助けても,極端に言えば民主化を助けてさえも,アメリカのナショナリズムが彼らのナショナリズムとぶつかれば,アラブ側のナショナリズムは絶えず再生産されることになるでしょう。ナショナリズムは第二次大戦後の第一期には,植民地解放という形で現われた。今はアメリカの支配に対する抵抗という形で現われている。
(p.154~p.156)


〈チャップリン〉
 彼は大衆性から始め,さらに時代の中心的課題を次から次へと取り上げた。工場の流れ作業における人間疎外(『モダンタイムス』1936年),ファシズム(『チャップリンの独裁者』1940年),資本主義と戦争(『チャップリンの殺人狂時代』1947年),喜劇役者としての自伝的回想(『ライムライト』1952年)をはさんで,金もうけと広告宣伝と大衆操作に熱中する新大陸(『ニューヨークの王様』1957年)――もちろん喜劇仕立てであるから誇張と単純化を免れないが,二〇世紀社会のこれだけ多くの要点をこれだけ明瞭に指摘し,これだけ鮮やかに批判した芸術家は,映画作家ばかりでなく,文学者や画家にも少ないだろう。
 二〇世紀はたしかにチャップリンの世紀でもあった。すなわちこの時代には,愚挙が相次いだが,その愚挙をみずから笑う能力も残っていた。
(p.25~p.26)


*****************************

    ※パソコン用ペタこちら↓↓↓
ペタしてね

    ※携帯用ペタこちら↓↓↓
ペタしてね

きたよ♪してね!(オレンジ)