河上肇~長男の死と詩~ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 前も書いたけれども,河上肇の魅力は,真理の科学的追究と人生の思想的問いかけとが彼の中で不可分に結びついているところ。彼は単なる経済学者ではなく,経済や社会を人間の問題として広く深く追究し,人生いかに生きるべきかを自らの生涯を賭して追求した思想家である。前者の経済学者としての側面は,若い頃によく読んだし,ちょっと専門的でブログにはそぐわないかもしれない。後者に関して,河上にとって生き方や生きること自体を追求し,その中で自らの感情を表現する不可欠の手段が詩歌だった。あまり知られていない河上の詩人としての側面を取り上げる方が,読者一般の興味を引くだろうし,私も不勉強の分野なので興味深い。河上の詩歌を註解する力は私には無いが,何かを感じる感覚は多少なりともあるから,ここに紹介し,読者の鑑賞に供したい。

 河上は人生の節目節目に,その心境を詩歌に表している。もちろん息子の死に直面したときも例外ではない。下の三首は,大正末年に長男の政男(24歳)を亡くした頃に詠んだ歌である(大正15年9月22日)。なお,今日の記事に掲げた河上の作品はすべて『河上肇全集21』p.13~14に掲載されているもの。


百四十日胸と頭に氷おき秋を待ちわびて逝きにし我子

汝逝きて我世はすでに終れりと思ふともなく思ふことあり

年五十,子を亡ひて今更に人のいのちの尊さを知る



 次は,長男の他界から2か月あまりたった後,ノートに書きつけた詩である(大正15年11月15日)。


政男,政男,
京にあっては
秋のわかれの言葉
十夜の鐘がなる。

百四十日,病に臥して
お前の待ちわびてゐた秋が,
いつしか無駄に来て,
今また去ろうとしてゐる。

政男,政男,
逝きしお前を思うて
父はあの鐘のねに
ただほろゝゝと涙をおとす。



 この亡き息子に優しく語りかけるような詩から,河上の無念,心の傷がどれほど深いものであるかが窺えよう。一周忌が近づいた時期には,おそらくは最も早く作られたと考えられる下の漢詩が「平仄の合わぬ詩」と題して詠じられた(昭和2年9月8日)。


 去年亡愛子(去年 愛子を亡い)
 今春別慈父(今春 慈父に別る)
 傷心半似安(傷心 半ばは安らかなるに似たり)
 洛陽一書蠹(洛陽の一書蠹)


 結句にある「洛陽」とは日本で言えば京都のこと,「書蠹」とは書物に取り憑かれた男の意で,河上自身を指している。ところで,転句(第三句)の「安らかなる」とはいかなる意味だろうか。愛児を亡くし,そして父親を亡くして「安らかなる」とは,やや不可解である。親を見送るのは子の務めであるとしても,自分よりも子どもが早逝してしまったことで負う親の傷心はいつまでも癒えないほどのもののように想像する。だが,息子の死から1年たち,父親の死をきっかけに,傷心から多少なりとも解放されたのだろうか。それが証拠に,以後昭和時代には河上は堰を切ったように旺盛な研究活動,政治活動を行っていく。心臓に不治の病を抱えた長男が生きていたなら,そこまで自由は利かなかったのではないか。もしかして河上の人生は全く変わったものになっていたかもしれない。そんなことを思わせる句であった。「半ばは似たり」という表現が,動揺から安寧へと微妙に揺れ動く河上の心情をよく表しているように思える。

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~
※杉原四郎・一海知義『河上肇――学問と詩』より


*********************************
   ※パソコン用ペタこちら↓↓↓
ペタしてね
   ※携帯用ペタこちら↓↓↓
ペタしてね

   ※メールはこちらまで!eijing95@gmail.com

読者登録してね