週刊朝日(朝日新聞出版)が例の橋下市長に関する連載記事(「ハシシタ 奴の正体」)について謝罪し,その翌日には連載打ち切りまで発表した。佐野眞一氏が書いた,その記事を昨日入手したが,まだよく読んでいないので,内容的に突っ込んだコメントは今日のところは差し控えたい。が,さっと目を通した限りの印象では,部落差別を助長する意図は記事に感じられなかった。ろくに読んでもいないのに,これ以上,発言するのはやめよう。もし機会があれば,内容についてもう少し突っ込んで書いてみたい(要望があれば・・・たぶん皆無だと思うが)。
今日はちょっと気づいたことだけ述べさせてもらう。すなわち,出版社が今さらになって「不適切な記述が複数ありました」と言って謝罪し,連載を打ち切るなんてことは,普通は100%あり得ない。橋下市長の抗議を受けて,読み返してみたら,「あ~不適切な記述が見つかりました」なんて,まるで事前に編集部が原稿を読んでいなかったかのようだ。
編集部が原稿に目を通していないなんてことはあるはずがない。編集長なり編集担当者がゲラ段階から校了まで,暗記できるくらいに何度も読んでいるはずだ。その過程で,事実誤認や誤字脱字,文章表現上の誤りや統一などをチェックするのはもちろん,人権侵害や差別用語,いわゆる社会通念上,不適切と思われる表現や記述にも厳しく目を光らせているはず。今,私がやっている某私塾の塾内テストですら,ゲラ稿上がりから校了まで,原稿整理→ダブルチェック→初校→再校→念校,と最低5回,校閲の工程がある。朝日新聞が親会社に控える朝日出版社ぐらいの出版社ならもっと厳しいだろう。
では,今回の記事について,言われてはじめて気づいたかのような週刊朝日の謝罪は何を意味しているのか。親会社の朝日新聞は,「子会社とはいえ全くの別会社がやったことで,うちとは関係ありません」という言い分だ。そして,週刊朝日は週刊朝日で,「フリージャーナリストの佐野眞一氏が勝手に書いたことで,私たちは知りませんでした」というような態度である。いかにも責任をすべて佐野氏に押しつけているかのように見える。
じゃあ,なぜ週刊朝日は内容を熟知しながら佐野氏の記事を載せたのか。まぁ,要するに一言で言えば,売り上げ部数を上げるためにほかならない。今回の記事は,週刊朝日側が橋下市長を徹底的に批判する意図でもって企画したものではないだろう。ファシズムをもじって「ハシズム」と名づけて橋下市長を論難したり,逆に橋下市長を救世主として,総理に!とまで持ち上げたりする類のジャーナリズムと同じく,今回は「ハシシタ」という血脈を暴き,DNAを解明するという,かなりえげつないやり方をとった佐野氏を登用し,時の人・橋本市長を撃つことで,センセーショナルに話題を振りまきたかっただけだろう。
私は佐野氏の書いた記事の内容を批判しているのではない。上にも書いたが,内容的な問題は今日は保留する。問題は,週刊朝日の責任逃れともとれる態度である。社会的反響がかなり予想される,あれだけの企画であるから,事前に何度も入念な編集会議や著者との打ち合わせがあったはずで,記事内容に責任があるにもかかわらず,あたかも責任を放擲するかのような謝罪文を発表して,早々と橋下市長に全面屈服するとは,ジャーナリズムの風上にも置けない!たとえ親会社の朝日からの圧力があったとしても。
ジャーナリズムにとって記事は命だ。記事の内容がすべてである。掲載する記事に,ジャーナリズムとしての信念や覚悟は欠片もないのか。一晩で撤回するほど,記事は軽いものだったのか。ある意味,被害者は佐野氏である。橋下市長の抗議とメディア戦術によって,世論は一気に週刊朝日叩き=佐野叩きに傾いた。だが,佐野氏はこれくらいのことで沈む人間ではないだろう。同和や在日などの問題に精通している彼は,また別のところで橋下批判をやるのではないか。実は,今回の記事が週刊朝日ではなく,例えば実話ナックルズのような弱小雑誌に載っていたら,こんな騒ぎにはなっていなかっただろう。なぜなら,橋下市長は大手メディア(大新聞・テレビ)しか相手にしないからだ。中小以下のメディアは一切無視,取材拒否である(露骨なメディア差別!)。地方分権とか中央集権の解体とか威勢のいい言葉を並べながら,記者クラブ制度に乗っかって,日本の中央集権に巣くう大手メディアだけを温存しようとしている態度に(というより,ただ利用しているだけかも知れぬが),多くのフリージャーナリストは怒り心頭に発しているのだろう。その一つの表れが今回の佐野氏の記事かも知れない。
いつか書くときがあったら詳しく書きたいが,今回の橋下市長の抗議を見て連想的に思い出したのは,かつての部落解放同盟がやった過激な糾弾や言葉狩りである。解放同盟には功・罪があるにしても,私はその活動のし方に部落差別を助長する面が少なからずあったと思っている。元来,路地出身者の味方でありながら,活動の結果,その反対物に転化した事由をここで書く暇はないが,ごく簡潔に私の考えを述べるとすれば,差別の隠蔽は差別の解決にはつながらず,むしろ差別を助長するものだということ。私は同和問題にしても,もっと表立った議論や批判が必要だと考える。意識の下層に潜行し固着してしまった差別意識ほど取り除くのに厄介なものはないからだ。
何か,今回の橋下市長の過剰な反応を見ていると,部落差別を批判していながらも結局は差別を助長してしまった解放同盟や共産党と同じ轍を踏んでいるように見えるのである。私の直感的な部分で,明確な論拠は言えないのだが,橋下市長は,かつて自身の受けた差別に対して恨みや怒りは持っているが,差別そのものを解消することには関心が向いていないように感じる。
なお,今回の一件で,橋下市長が朝日に対して,メディアや世論を味方にして,平然と取材拒否をしたことに見られるように(後で撤回),今後,メディア規制がかなり強まるであろうことを大いに危惧する。
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