『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)の序文によると,辺見庸が句集の出版を勧めた際に,大道寺は「三十七年になんなんとする獄中生活により,じぶんの俳句表現が獄外の現実,とくに大震災後のリアリティに『拮抗』しなくなっている」という懸念を示し,出版を躊躇したという。そのような懸念が全くの杞憂であることは,その作品群に眼をやれば明らかだろう。また,この句集の売れ行きもそのことを傍証している。発売から半年で早,五刷だという。句集としては異例のセールスだ。
辺見は,「パラドクスまたは奇蹟」としてこう指摘する。大道寺の句群は「獄外のおおかたの詩人たちより獄外ののリアリティを掴んでいる」。そして,「この数十年,獄中と獄外の者とで,果たしてどちらの心がより荒んだのか,わかったものではない…」と。
東京拘置所が改築され,窓にも目かくしがほどこされるようになってからは,大道寺は獄外の風景を窓越しに眼にすることすらかなわなくなった。その中で句作を続ける俳人・大道寺とは…。辺見によれば,大道寺は「記憶と想像力と思念の力によってまなうちに不可視の風景を結像させて,肝をしぼりあげるようにして言葉を抽出している。」
それに対して,獄外にいる私たちは何だ!記憶を日々大量に排泄し,想像の射程を日々短くし,怒りを忘却している私たちとは…。確かに,こうしないでは生きていけないのが日本型超資本主義の現実だ。その資本主義の思考停止作用から免れている大道寺は,ある意味,本質的に自由なのだろうか。いずれ国家によって処刑される日までの一日一日,一刻一刻を,国家によって他律的に生かされている彼のほうが,獄外のリアリティを掴んでいるのみならず,自己の内面をいよいよ深めているとは,まさにパラドクス。それとも奇蹟というべきか。
全句集は,大道寺の句が時系列で収録されているから,時代の変化に沿って彼の心の変化,自己深化の過程が読み取れるのではないか。私はまだそこまで十分読み込んではいないが,例えば,次の句には自己を凝視する眼が研ぎ澄まされていないか。
蚊とんぼや囚はれの身の影は濃き
俳句という有季定型詩の形が大道寺に自己深化の方途を与えているようにも見える。十七字という制約のある器が,獄外の常人よりも大道寺にとってはるかに重い意味を持っているように感じるのだ。独房という狭い世界が十七文字という,これまた狭い文学形式と釣り合っているといってもよいだろうか。とにかく辺見が言う「全実存を託した」という言葉が全く大袈裟に感じられないほど,各句が命を注ぎ込まれて読む者に迫ってくる。囚人の影が濃いのは,自ら抱えるものが重いからであるが,同時にその影を凝視する眼が深く注ぎ込まれているからでもある。作者の研ぎ澄まされた眼差しは読む者にも迫ってくる。お前の影は何でそんなに薄いんだ,と。
有季定型の持つ制約そのものが,確定死刑囚という極限的状況において自己深化と解放の契機となった。ここに上手く説明できない俳句のパラドクスというか力がある。大道寺が独房で自由詩や小説などを書いたら,それは自己深化のきっかけとなったであろうか。そもそも無制約の文学などを書こうとは思わなかっただろうが。
辺見の次の言辞がすべてを語っている。―――「十七字においてのみかれは,極限の個として,ひと知れずやっと自由なのだ。」
3.11以後,耳障りのいい空虚な言葉だけが幅を利かし,悲しみの本質に迫った言葉は不謹慎とされ排除される日本の言説の中で,大道寺の言葉は,誰のものよりもリアリティがあり,人の内面に血を滲ませ魂を浄めるほどに深みがあるように感じた。それは,私の身のうちが虚空であるからか。
水底の屍照らすや夏の月
たましひの転生ならむ雪蛍
凩や身のうち深き虚(うろ)の果て
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