昨日のブログでは,チャップリンの映画の笑いの中にも影が差しているというか,悲しみが込められているというようなことを述べた。だから,チャップリンなら,「スマイル」のような一面的な歌詞は書かないだろうと。
折しも昨日の中日新聞・朝刊の文化欄で,先週も紹介した絶叫歌人の福島泰樹さんが「悲しみを忘れたところに,人間の真実はない」と書かれておられた。元気や勇気や笑顔(がんばろう日本!)といった表面的で単純化された価値感が支配的な今の世の中にあって,この微言は貴重で重たい。チャップリンの『モダン・タイムズ』でも,ほとんど全編がドタバタ喜劇のようであるが,その陰に隠れた悲しみや切なさ,さらに言うなら絶望や虚無の中に,人間の真実が垣間見えるように思うのである。福島さんは,「無常観」の共有を,すなわち作家・高橋和己が言う「悲しみの連帯」を呼びかける。なお,僕も高橋和己の作品は読んで大きな影響を受けているが,この「悲しみの連帯」というのが,どこで言われたことか思い出せない。おそらくは,イデオロギーによる連帯ではダメで,"業(ごう)"を背負っての心の連帯ということを高橋は説いたのであろう。
昨日の福島さんの投稿記事でも短歌がいくつか掲げられていたが,あまり心に残るものがなかった。その代わりに,福島さんも絶叫短歌コンサートでよく歌う中原中也のある詩が心に浮かんだ。逆説的なのだが,「汚れつちまつた悲しみに…」という有名な詩。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
(中略)
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
(中略)
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
誰にも共有されない悲しみはいずれ汚れっちまって,倦怠のうちに死を夢むのだろうか。そうはならないように,昨日紹介した「スマイル」を「クライング」と改作して,「悲しみの共有があれば,明日には太陽が君のために輝いてくれるかもしれない」と歌いたい。9.11同時多発テロから10年,3.11東日本大震災から半年の今日の日に。

