先日,モブ・ノリオ氏による新聞の投稿記事で知ったのだが,大阪・アメリカ村でクラブ(ダンスクラブ)の摘発が相次いでいるという。風営法違反を理由に,この半年の間に7,8軒ものクラブが営業停止になったらしい。もしそれが本当なら,由々しき事態だ。橋本府知事の大阪都構想の一環として,市街地から外れたところに,カジノやクラブなどのいわゆる夜の歓楽街を特区として作ろうという意思の表れであろう。
前に書いたが(「心を糧として…」),大阪府といえば,「君が代」斉唱時の起立・斉唱を義務付ける条例を作ったところだ。こんな条例を作る首長なら,クラブの締め出し・排除もやりかねないと思った。どちらも根っこは同じだ。和歌と現代音楽,とりわけダンスミュージックを同列に論じることに違和感を覚える人もいるかもしれないが,和歌であれダンスミュージックであれ,歌というものは,権力による押し付けによって人びとに根付くものでもなく,また,権力による排除によって社会から消え去るものでもない。
ブルースやスピリチャル(黒人霊歌),ゴスペル(ブラック・ゴスペル)などの黒人音楽も,かつては権力や白人によって抑圧・阻害された歴史を持つが,その光は決して絶えることなく,アフリカン・アメリカンたちの魂の祈りとして輝き続け,ジャズというジャンルをも産み落とした。ジャズは今ではアングロ・サクソンたちをも魅了して止まない音楽ジャンルとして社会的に確立している。
今,日本のクラブ音楽シーンでも,かつての黒人音楽であるブルースやスピリチャルなどの要素を受け継ぐ,HIP HOPやR&B,レゲエなどのダンスミュージックが大きなウェイトを占める。何といってもブラックミュージックの魅力は,ジャズやソウルミュージックなどとも共通する,あの独特のグルーブ感だ。だから,それはダンスと結びつき,さらにファッション,価値観,生活スタイルへとつながり,ブラック・カルチャーなる文化をも生み出した。だから,音楽は文化であり,生き方であり,さらに遡れば生命そのものであるのだ。
クラブという空間は,そのことを凝縮して見せてくれる。音楽を愛する若者たちにとって,クラブは音楽を楽しみ,自由に踊る場であると同時に,自らのレーゾンデートル,アイデンティティ確認の場であり,その意味で生命の発露の場なのである。このような若者の自由と生命を奪おうとしているのだから,モブ氏が言う通り,今,橋下知事がやっていることはファシズムにほかならない。既存のクラブに対する弾圧には徹底抗戦すべきだ。
確かにクラブ側にも,権力者につけ込まれるスキがあった。クラブには常に,薬物,暴力,銃などの〈悪〉のイメージがつきまとっている。実際に犯罪・事件があり,また住民からの苦情も絶えないという。その辺りを為政者側につけ込まれて,一連の摘発に至ったのだろう。客側にも問題はあるとは思うが,クラブ経営者やパーティ・オーガナイザーの経営努力で,クラブは,権力の介入を許さないほどにもっと魅力的で健全な空間になりうる。
さて,いつも通り,また話がぶっ飛ぶが,かつてナチスが作ったテレジ-ンやアウシュビッツなどの強制収容所にも,「音楽」はあった。かいつまんで言うと,ユダヤ人の囚人たちによってオーケストラが組まれ,強制労働の送迎の際や,ガス室で処刑される時などに音楽が演奏されていたという。そのオーケストラに編成された演奏家たちは,囚人の中でも優遇され,強制労働は免れ,ガス室送りは免除されたのだという。だから,志願者が殺到したが,その中から選ばれた演奏家たちは,他の囚人たちからは白い目で見られ,疎外された。逆に,演奏家たちにしても,音楽活動を許されたことは救いだったとしても,いたたまれない心境であったことは容易に想像できるし,実際に今なお罪悪感に嘖まれているメンバーもいるという。なお,チェコの有名な指揮者アンチェルもテレジーン収容所で音楽を演奏したが,アウシュビッツでの音楽活動についてはよくわかっていない。ちなみに,テレジーン収容所とは,ユダヤ人虐殺の事実をカモフラージュするために,ユダヤ人芸術家たちに音楽・芸術活動を盛んに行わさせた収容所であり,その囚人の多くがアウシュビッツに移送された。
ガス室に向かって歩いていく人たちを見送るのは,天使のように明るいモーツアルトの音楽。――――ガス室に送られる囚人からは「こんな時に音楽を演奏するなんて・・・ひどすぎる!」と面詰されることもあったという。しかし,オーケストラ団員はいつでも冷静に演奏するようにナチスに命令されていた。命令に従わなければ,楽団員をはずされて強制労働に逆戻りである。演奏と引き換えに生き延びた楽団員。この極限状況の中で演奏された音楽とは・・・。
ナチスは音楽の力を政治的に利用し,ホロコーストという惨劇を隠蔽しようとした。そのことは明らかだが,同時に,ナチスの命令によって演奏されていた同じ音楽が,そのナチス側の憲兵(ドイツ人)をも癒し続けていたという事実に,われわれはどう向き合えばよいだろうか。僕にはまだよくわからない。
いい音楽というものは,それがどこで,誰が,何のために演奏されたものであったとしても,一度奏でられた後は,そういうこととは一切関わりなく,人の心を動かし,癒しを与える。権力が強制的に組織したものであろうと何だろうと,一旦奏でられて,聴く者の耳に届いた瞬間,音楽は音楽そのものとして聴く者を感動させ,命を吹き込むものなのだ。最終的に音楽とは,人間の心の内側から滲み出てくるものであり,それが受け手にもしみ入って,感動を与える。そのきっかけが権力による強制だろうが何だろうが,関係ないのだ。音楽には,そういう一種自律性みたいなものが備わっているように,アウシュビッツのオーケストラの事実を知って,思った。
しかし,音楽には状況,動機や目的は関係ないとはいえ,できることなら,虐殺を隠蔽するための手段や,処刑を実行する兵士の癒しとしては使われてほしくない。否,本来,使われてはならないものだ。なぜなら,音楽は人間の命の輝きであり,命そのものだから。
話がお~きく横道に逸れてしまったが,要は,音楽というものは権力によっても規制・操作不可能なものだということである。仮に,大阪のクラブが市街地から離れた地に作られようとも,音楽は死なないし,自由にダンスすることもなくならない。しかしながら,アウシュビッツのオーケストラがそうであったように,隔離された地での音楽は,多くの犠牲やコストや不利益を伴うに違いない。それが音楽の本来の姿だろうか。そうではないはずだ。ならば,モブ氏が提唱するように,ミュージック・ラヴァーたちは,カジノの傍らにクラブを併設しようという,〈ナイトシーン特区〉という名の〈強制収容所〉建設に反対するサウンドデモを展開すべきかもしれない。音楽の心がわからない今の東京都知事や愛知県知事も,似たようなことをやりかねない。強制収容所という特殊状況下での音楽は,本来あるべき音楽の姿では決してないはずだ。震災復興の陰に隠れて,とんでもない事態が潜行している。
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そのうち橋下知事なら,調子に乗って楽曲の規制までやりそうだ。真っ先に,下のようなギャングスタ・ラップやウェッサイなどは発禁対象になるだろう。
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