心を種として・・・ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 入学式や卒業式などの「君が代」斉唱時に教職員に起立・斉唱を義務付けるという,とんでもない条例が,某巨大自治体で成立した。その前には,「君が代」斉唱時,教職員に起立を求めた校長の職務命令が違憲かどうかが争われた裁判で,最高裁がなんと合憲との判断を下していた。それから,言うまでもなく,すでに国歌国旗法は制定されている。

 この「君が代」義務付けの一連の流れに対する一般的な反対論としては,教育の自由とか主体性とかが失われるということが言われるだろう。また,上の条例が成立した自治体(天下の台所)には,在日韓国・朝鮮人の生徒が多い地域も多くあり,「君が代」斉唱や起立を拒む生徒に無理強いをするのは,思想・良心の自由を奪うものであり,教育の現場としてあるまじき行為であると言われるだろう。僕もそういった意見に賛成だし,こういう世の中の流れを憂う一人であるが,今日はちょっと別の観点から異議申し立てをしておきたい。

 詳しい成立事情は知らないのだが,「君が代」の元は「古今和歌集」の和歌とされる。もしこの「古今集」の心に通じている人ならば,そして本当に「君が代」の歌を愛する人ならば,上のような条例には賛成しないと思う。

 『古今和歌集』の有名な序文には紀貫之の独自の見解が示されているが,こう書かれてある。

 やまとうたは,人の心を種として,よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人,ことわざしげきものなれば,心に思ふことを,見るもの、聞くものにつけて,言ひ出だせるなり。

 歌とは本来,そういうものだろう。すなわち,決して外から強制されるものではなく,心の底から自然と湧き上がってきて歌われるものである。それは,心を種にして,そこから葉っぱが出てくるようにして言葉が現れてくるのである。

 だから,そういうものでなければ本来の歌とは言えないし,ましてや人々から愛される歌ではないだろう。逆から考えると,上のような条例がつくられたことは,いかに「君が代」が人々から愛されていなかったかということを物語っている。というより,どれだけ「君が代」の精神が理解されていなかったを示している。多少なりとも和歌の心に触れたことのある人間ならば,あのような条例に賛成するはずはないだろう。

 歌の本質とは,心を根本にして,それが自然と言葉に表現されたものという点にある。人を感動させ慰めるような歌や言葉は,権力による強制からは決して生まれてこない。


****************************

Ms.OOJA 「雨」



 ペタしてね プレゼントしてね