クロ-ン病,震災,天罰発言 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 いきなり私事で恐縮ではあるが,僕のいわば"命綱"あるエレンタール(成分栄養剤)の生産が,今回の震災の影響でストップしている。味の素製薬の福島工場が被害を受けたためだが,操業再開の見通しは立っていないという。当面は在庫品で安定供給に努めるということであるが,その在庫がどれくらいあるかという情報は知らされていない。また,ラコールという半消化態栄養剤も震災によって岩手県にある大塚製薬の工場が製造中止となっており,これまた製造再開の目途は立っていない。こんな情報はエレンタールに頼っている同病者にしか関心がないと思うが,一人でも関心のある方がいるなら,書く意味はあるだろう。

 現在,僕は1日エレンタール6パック(1800kcal)と,ラコール1パック(200kcal)によって,ほぼ毎日栄養を摂っている。最近は日によって50~100kcal程度,おかゆやうどんなどの食事を取ることもあるが,メインは経管栄養でエレンタールを摂取し,補助的に経口でラコールをとる。普通の食事をとっていけば,いずれ悪くなり,入院・手術が避けられなくなることは,20年以上の経験知からわかる。近年はレミケードという生物製剤を使った画期的な治療法が使われるようになったが,僕の場合は長年の経過をたどって小腸に著しい狭窄が形成されたため,適用にならない。病気がよくなることによって,逆にその狭窄を悪化させてしまう恐れがあるからだ。だから,エレンタールに頼るしかない。エレンタールさえあれば,何とか生きていける。いつかも書いたが,非人間的な治療ではあるけれども,最後の切り札だ。今となるとエレンタールの有り難みを身に沁みて感じる。

 しかし,それが無くなるとなると,他の栄養剤に頼らざるを得なくなるが,ラコールも製造中止となれば,エンシュアリキッドなどを取ることになるのか。エンシュアは昔,飲んでいたが,脂質が多く,エレンタールほどの寛解維持効果はない。経験上,完全消化態の栄養剤が一番効果があり,それはエレンタールしかない。だから,エレンタールの生産停止状態は,僕にとっては栄養停止状態を意味する。二度の手術を経験し,小腸も相当短くなっているから,これ以上手術は避けたい。何とか早い工場の操業再開を願う。

 震災後は,エレンタールを1日6パックから5パックに,ラコールは1日おきの摂取に切り替えた。そして節食,というか絶食で資源を節約する。今はそれくらいのことしか,被災者に対する支援ができていない。今は世の中全体が,「募金・節電・献血」が善で,それ以外はすべて悪・贅沢・不謹慎と見なされるような雰囲気になっていて,ちょっと怖い。「贅沢は敵だ」とされた戦時中の総動員体制の例を引くまでもないだろう。メディアなどの災害報道などを見ていると,エレンタールを5~6パック摂取していることもどこか贅沢に思えてきて,罪悪感にさいなまれることもあったが,日本の産業や国力を当面支えていかなければならない被災地以外の人間が,PTSDなどになっては元も子もないと,強く自分に言い聞かせている。エレンタールは自分にとって"命の白い粉" "命の砦"なのだから。

 プロゴルファーの有村智恵が,若いのにしっかりしたことをブログに書いていた。「義援金を送らない=何もしてないではないんです。人には人のやり方があって、人には人の家庭の事情があります。・・・私たちがこんな状況下でもゴルフをする意味。・・・」

 被災地の人たちはもちろん,被災地以外の人々も今回の震災によって多かれ少なかれ影響を受けている。被害を受けた人々の思いはそれぞれであり,悲しみや苦しみにもさまざまな相・心模様・陰翳がある。トルストイが言うとおり,「不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。」そういう個々人の思いの差異を捨象し,すべてを「日本人」として十把一絡じっぱひとからげにして,今回の震災を日本人(の我欲)に対する「天罰」と言った石原都知事の発言は到底許されるものではない。「天罰」では,震災で亡くなった人たちが浮かばれないだろう。また遺族の思いを汲めば,あまりに乱暴な放言であると言わざるを得ない。

 人々の思いを無視して,大災害を一様に「天罰」と見ることには,文豪の芥川龍之介も異を唱えていた。最後に,芥川が関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)について書いたものを引いておきたい。


 誰か自ら省れば脚にきずなきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、ほとんど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴てんけんなりと思ふあたはず。いはんや天譴てんけん(*天罰のこと)の不公平なるにも呪詛じゆその声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、み難き遺憾ゐかんを感ずるのみ。我等は皆なげくべし、歎きたりといへども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり

 同胞よ。面皮めんぴを厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずることなかれ。・・・同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となることなか



 芥川龍之介は関東大震災の後にはびこった「天罰論」(特に渋沢栄一)に反対した。この震災を「天譴」と思ってはならない!カンニングをした中学生はその本人が悪いが,この震災は決して誰か個人が悪い行いをしたから起こったのではないのだ,と。しかも,あのネガティブな芥川でさえ,東京人に対して「絶望すべからず」と主張した。それほど彼にとっても大震災のショックは大きかったのだろう。震災は,善人・悪人,個々人の差異を無視して,一気にすべてをなぎ倒した。しかし,芥川は個々の人の思いを汲み取って,「天譴」と信じてはならないと言った。「冷淡なる自然の前に,アダム以来の人間を樹立せよ」と言ったのだ。かつては芥川賞も取った都知事ではあるが,芥川龍之介の感性や精神はひとかけらも受け継がれてはいない。